・・・深くは気にも止めませんでしたが、その内にまた誰かに見つめられているような、気味の悪い心もちが自然に強くなり出したので、こんな吊皮の下に坐っているのが、いけないのだろうと思いましたから、向う側の隅にある空席へわざわざ移りました。移って、ふと上・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 乗合いは随分立籠んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿。 二 誰も知った通り、この三丁目、中橋などは・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・そして耕吉の窓の下をも一二度、口鬚の巡査は剣と靴音とあわてた叫声を揚げながら、例の風呂敷包を肩にした、どう見ても年齢にしては発育不良のずんぐりの小僧とともに、空席を捜し迷うて駈け歩いていた。「巡査というものもじつに可愛いものだ……」耕吉は思・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席を・・・ 太宰治 「思案の敗北」
・・・やっぱり、お父さんがいないと、家の中に、どこか大きい空席が、ポカンと残って在るような気がして、身悶えしたくなる。和服に着換え、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいなキスして、それから鏡台のまえに坐ったら、客間のほうからお母さんたちの笑い声が、どっと・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・その前の平地に沢山のテエブルと椅子が並べてあって、それがほとんど空席のないほど遊山の客でいっぱいになっている。テエブルの上には琥珀のように黄色いビイルと黒耀石のように黒いビイルのはいったコップが並んで立っている。どちらを見ても異人ばかりであ・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・私は意外に空席がかなりに多い事を不思議に思った。 壇上の人が何かいう度に、向かって右の方と左の方の椅子の列から拍手をしたり、何か分らぬ事を云ってはやし立てる人がいた。中央の列の人はみんな申し合せたように黙りこんでいた。左右の席の人々が何・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・後のその隣に空席が出来たときに女の方でそこへ行って何かしら話をしていたのである。 われわれの問題は、虫が髪に附いてから、それが首筋に這い下りて人の感覚を刺戟するまでにおおよそどのくらいからどのくらいまでの時間が経過するものかというのであ・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・三日前に座席をとったのであるが、二階の二等席はもうだいたい売り切れていて、右のほうのいちばんはしっこにやっと三人分だけ空席が残っていた。当日となって行って見ると、そのわれわれの座席の前に補助椅子の観客がいっぱい並んで、その中には平気で帽子を・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・すなわち三四台の週期で、著しい満員車が繰り返され、それに次ぐ二三台はこれに踵を接して、だんだんに空席の多いものになる。そうして再び長い間隔を置いて、また同じ事が繰り返されるのである。 以上は、事がらをできるだけ簡単に抽象して得られた理論・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
出典:青空文庫