・・・ 小田原ではバスが待っていたが、箱根町行は満員なので空席のあった小涌谷行に乗込んだ。湯本までの道路は立派なドライヴウェーである。小田原征伐当時の秀吉に見せてやりたかったという気もした。塔の沢あたりからはぽつぽつ桜が見え出した。山桜もある・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・ 六 電車に乗って空席を捜す。二人の間にやっと自分の腰かけられるだけの空間を見つけて腰をおろす。そういう場合隣席の人が少しばかり身動きをしてくれると、自然に相互のからだがなじみ合い折り合って楽になる。しかし人によ・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・思いがけず、一つ空席があった。ひろ子は、無理に重吉をかけさせた。「今は、あなたの方がくたびれやすいのよ」 揉まれた重吉の顔に疲労があらわれている。「腹がすいて来たね」 重吉は、ひろ子を見上げて苦笑した。「もう?――でも、・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・しかも随分込み合っている座敷なのに、その人の周囲は空席になっているので、僕は入口に立っていた時、もうそれが目に附いたのであった。年は三十位ででもあろうか。色の蒼い、長い顔で、髪は刈ってからだいぶ日が立っているらしい。地味な縞の、鈍い、薄青い・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫