・・・ もしあの時空腹のまま、畢波羅樹下に坐っていられたら、第六天の魔王波旬は、三人の魔女なぞを遣すよりも、六牙象王の味噌漬けだの、天竜八部の粕漬けだの、天竺の珍味を降らせたかも知らぬ。もっとも食足れば淫を思うのは、我々凡夫の慣いじゃから、乳糜を・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・風雪の一日を、客舎の一室で、暮らす時に、彼は、よく空腹をかかえながら、五匹の鼠に向って、こんな事を云った。「辛抱しろよ。己だって、腹がへるのや、寒いのを辛抱しているのだからな。どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。それも、鼠・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・ 昨夕もよ、空腹を抱えて対岸のアレシキに行って見るとダビドカの野郎に遇った。懐をあたるとあるから貸せと云ったら渋ってけっかる。いまいましい、腕づくでもぎ取ってくれようとすると「オオ神様泥棒が」って、殉教者の様な真似をしやあがる。擦った揉・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・「僕は大空腹。」「どこかで食べて来た筈じゃないの。」「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」「まあ……」 黙ってしばらくして、「さあ。」 手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・冷い、と極めたのは妙ですけれども、飢えて空腹くっているんだから、夏でも火気はありますまい。死ぎわに熱でも出なければ――しかし、若いから、そんなに痩せ細ったほどではありません。中肉で、脚のすらりと、小股のしまった、瓜ざね顔で、鼻筋の通った、目・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・予は何分寝ようという気にならない。空腹なる人の未だ食事をとり得ない時の如く、痛く物足らぬ心の弱りに落ちつくことが出来ぬのである。 元気のない哀れな車夫が思い出される。此家の門を潜り入った時の寂しさが思い出される。それから予に不満を与えた・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・中には霊の飢餓を訴うるものがあっても、霊の空腹を充たすの糧を与えられないで、かえって空腹を鉄槌の弄り物にされた。 二葉亭の窮理の鉄槌は啻に他人の思想や信仰を破壊するのみならず自分の思想や信仰や計画や目的までも間断なしに破壊していた。で、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ こうして二人のものは、終日この町の中をむなしく歩きまわって、疲れて空腹を感じて、日暮れ方になると、どこへともなく帰ってゆくのでした。爺の歩きながら弾く胡弓の音は、寒い北風に送られて、だんだんと遠くに消えてゆくのでありました。こんなふう・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・彼等は、いま、驕慢で、贅沢で、貧乏人を蔑んではいるが、いかなるまわり合せで、おちぶれて、空腹を感ずるような時がないとはかぎらないであろう。その時、果して、いやしい考えを起さないだろうかと。 これと同じ悲哀を、まのあたりに見るからです。曾・・・ 小川未明 「読むうちに思ったこと」
・・・そんなものの五片や六片で、今朝からの空腹の満たされようもないが、それでもいくらか元気づいて、さてこの先どうしたものかと考えた。 ここから故郷へは二百里近くもある。帰るに旅費はなし、留まるには宿もない。止むなくんば道々乞食をして帰るのだが・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫