・・・それからさんざんおもちゃにしたあげくに、空腹だとむしゃむしゃと食ってしまうのである。猫の神経の働きの速さとねらいの正確さにはわれわれ人間は到底かなわない。猫が見たら人間のテニスやベースボールはさだめてまだるっこくて滑稽なものだろうという気が・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・それから散々玩具にした揚句に、空腹だとむしゃむしゃと喰ってしまうのである。猫の神経の働きの速さと狙いの正確さには吾々人間は到底叶わない。猫が見たら人間のテニスやベースボールは定めて間だるっこくて滑稽なものだろうという気がするのである。それで・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・先生は昔の事を考えながら、夕飯時の空腹をまぎらすためか、火の消えかかった置炬燵に頬杖をつき口から出まかせに、変り行く末の世ながら「いにしへ」を、「いま」に忍ぶの恋草や、誰れに摘めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、怪しげな飯盛の女に給仕をさせて夕飯を食う。電燈の薄暗さ。出入する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら『膝栗毛』の世界に這入ったような、いかにも現代らしくな・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・――昔しあるお大名が二人目黒辺へ鷹狩に行って、所々方々を馳け廻った末、大変空腹になったが、あいにく弁当の用意もなし、家来とも離れ離れになって口腹を充たす糧を受ける事ができず、仕方なしに二人はそこにある汚ない百姓家へ馳け込んで、何でも好いから・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・ いつも空腹である。 顔は監獄色と称する土色である。 心は真紅の焔を吐く。 昼過――監獄の飯は早いのだ――強震あり。全被告、声を合せ、涙を垂れて、開扉を頼んだが、看守はいつも頻繁に巡るのに、今は更に姿を見せない。私は扉に・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・相当空腹であったが、陽子は何だか婆さんが食事を運んで来る、それを見ておられなかった。一人ぼっちで、食事の時もその部屋を出られず、貧弱そうな食物を運んで貰う――異様に生活の縮小した感じで、陽子は落付きを失った。「ここへ置きますから、どうぞ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・過労をする。空腹になる。しかもあなた方はどうぞ立派な少女となって下さいといういたわりが、世間の空気から感じられるというのでもなく生活して来たということは、今日の少女たちの総ての人が分け合っている経験だと思われます。 さて、恐ろしい戦は終・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・しかしまた空腹で大切なことに取りかかることもない。長十郎は実際ちょっと寝ようと思ったのだが、覚えず気持よく寝過し、午になったと聞いたので、食事をしようと言ったのである。これから形ばかりではあるが、一家四人のものがふだんのように膳に向かって、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・が、一疋の空腹な雀は、小屋の前に降りると小刻みに霜を蹴りつつ、垂れ下った筵戸の隙間から小屋の中へ這入っていった。 中では、安次が蒲団から紫色の斑紋を浮かばせた怒った肩をそり出したまま、左右に延ばした両手の指を、縊られた鶴の爪のように鋭く・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫