・・・それと同時に窶れた頬へ、冷たく涙の痕が見えた。「兵衛――兵衛は冥加な奴でござる。」――甚太夫は口惜しそうに呟いたまま、蘭袋に礼を云うつもりか、床の上へ乱れた頭を垂れた。そうしてついに空しくなった。…… 寛文十年陰暦十月の末、喜三郎は独り・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・男は髭を伸ばした上、別人のように窶れている。が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待った瞳だった。「あなた!」 常子はこう叫びながら、夫の胸へ縋ろうとした。けれども一足出すが早いか、熱鉄か何かを踏んだようにたちまちまた後ろへ飛びすさった・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・生来薄手に出来た顔が一層今日は窶れたようだった。が、洋一の差し覗いた顔へそっと熱のある眼をあけると、ふだんの通りかすかに頬笑んで見せた。洋一は何だか叔母や姉と、いつまでも茶の間に話していた事がすまないような心もちになった。お律はしばらく黙っ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・――が、どこかその顔立ちにも、痛々しい窶れが見えて、撫子を散らしためりんすの帯さえ、派手な紺絣の単衣の胸をせめそうな気がしたそうです。泰さんは娘の顔を見ると、麦藁帽子を脱ぎながら、「阿母さんは?」と尋ねました。すると娘は術なさそうな顔をして・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶れてないで、もっと顔色も可かったもの…・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・と笊を手にして、服装は見すぼらしく、顔も窶れ、髪は銀杏返が乱れているが、毛の艶は濡れたような、姿のやさしい、色の白い二十あまりの女が彳む。 蕈は軸を上にして、うつむけに、ちょぼちょぼと並べてあった。 実は――前年一度この温泉に・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ これがために、窶れた男は言渋って、「で、ございますから、どうぞ蝋燭はお点し下さいませんように。」「さようか。」 と、も一つ押被せたが、そのまま、遣放しにも出来ないのは、彼がまだ何か言いたそうに、もじもじとしたからで。 ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・お幾は段を踏辷らすようにしてずるりと下りて店さきへ駆け出すと、欄干の下を駆け抜けて壁について今、婆さんの前へ衝と来たお米、素足のままで、細帯ばかり、空色の袷に襟のかかった寝衣の形で、寝床を脱出した窶れた姿、追かけられて逃げる風で、あわただし・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 三十路を越えても、窶れても、今もその美しさ。片田舎の虎杖になぞ世にある人とは思われません。 ために、音信を怠りました。夢に所がきをするようですから。……とは言え、一つは、日に増し、不思議に色の濃くなる炉の右左の人を憚ったのでありま・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空蒼く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失せむと、見る目も危うく窶れしかな。「切のうござんすか。」 ミリヤアドは夢見る顔なり。「耳が少し遠くなっていらっしゃいますから、・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
出典:青空文庫