・・・ おとよは、長くはっきりした目に笑みを湛えてわきを見ている。「それも省さんがあんまりおとよさんに苦労さしたからさ」「そんな事はねい、私はいつでもおとよさんの言いなりだもの」「まあ憎らしい、あんなこといって」「そんなら省さ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・と、露子の顔には覚えず笑みがあふれたのであります。つばめは、「それは幾日となく、太平洋の波の上を飛んできました。」と答えました。「そんなら、おまえは船を見なくて? ……」と、露子は聞きました。 すると、つばめは、・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛けぬ。琴の主はなお惜しげもなく美しき声を送れり。 客はさる省の書記官に、奥村辰弥とて売出しの男、はからぬ病に公の暇を乞い、ようやく本に復したる後の身を養わんとて・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・君はこのごろ毎夜狂犬いでて年若き娘をのみ噛むちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問いの不思議なると問えるさまの唐突なるとにわれはあきれて微笑みぬ。姉はわが顔を見て笑いつ、愚かなることを言うぞと妹の耳を強く引きたり。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ そのくせ生徒にも父兄にも村長にもきわめて評判のよいのは、どこか言うに言われぬ優しいところがあるので、口数の少ない代わりには嘘を言うことのできない性分、それは目でわかる、いつも笑みを含んでいるので。 嫁を世話をしよう一人いいのがある・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ 叔父さんは今に見ろ見ろと言ってすこぶる得意の笑みをその四角な肥えた浅黒い顔にみなぎらして鉄砲をかまえて、きょろきょろと見まわしてまた折り折り耳を立て物音を聞いてござった。 折り折り遠くでほえる犬の声が聞こえた。折り折り人の影がかな・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 曲終れば、音を売るものの常として必ず笑み、必ず謙遜の言葉の二三を吐くなるに反して、彼は黙然として控え、今しもわが吹き終った音の虚空に消えゆく、消えゆきし、そのあとを逐うかと思わるるばかりであった。 自分は彼の言葉つき、その態度によ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・金之助さんという名前からして男の子らしく、下ぶくれのしたその顔に笑みの浮かぶ時は、小さな靨があらわれて、愛らしかった。それに、この子の好いことには、袖子の言うなりになった。どうしてあの少しもじっとしていないで、どうかすると袖子の手におえない・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・町の曲がり角で、急に車が停まるとか、また動き出すとか、何か私たちの乗り心地を刺激するものがあると、そのたびに次郎と末子とは、兄妹らしい軽い笑みをかわしていた。次郎が毎日はく靴を買ったという店の前あたりを通り過ぎると、そこはもう新橋の手前だ。・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・男は、甘えるように微笑みながらていねいにお辞儀をして、しずかに帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。翌る朝、・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
出典:青空文庫