・・・「何、用って云った所が、ただ明日工場へ行くんなら、箪笥の上の抽斗に単衣物があるって云うだけなんだ。」 慎太郎は母を憐んだ。それは母と云うよりも母の中の妻を憐んだのだった。「しかしどうもむずかしいね。今なんぞも行って見ると、やっぱ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 新婚後まだ何日も経たない房子は、西洋箪笥の前に佇んだまま、卓子越しに夫へ笑顔を送った。「田中さんが下すったの。御存知じゃなくって? 倉庫会社の――」 卓子の上にはその次に、指環の箱が二つ出て来た。白天鵞絨の蓋を明けると、一つに・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・そしていつもの習慣通りに小箪笥の引出しから頸飾と指輪との入れてある小箱を取出したが、それはこの際になって何んの用もないものだと気が付いた。クララはふとその宝玉に未練を覚えた。その一つ一つにはそれぞれの思出がつきまつわっていた。クララは小箱の・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ おとうさんもおかあさんも僕がついそばにいるのに少しも気がつかないらしく、おかあさんは僕の名を呼びつづけながら、箪笥の引出しを一生懸命に尋ねていらっしゃるし、おとうさんは涙で曇る眼鏡を拭きながら、本棚の本を片端から取り出して見ていらっし・・・ 有島武郎 「僕の帽子のお話」
・・・ けれども、厭な、気味の悪い乞食坊主が、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥の傍なる暗い隅へ、横ざまに片膝つくと、忙しく、しかし、殆んど無意識に、鳥目を。 早く去ってもらいたさの、女房は自分も急・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 筐の簪、箪笥の衣、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。 いや、懸念に堪えない。「玉虫どころか……」 名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・畳が浮いてる、箪笥が浮いてる、夜具類も浮いてる。それぞれの用意も想像以外の水でことごとく無駄に帰したのである。 自分はこの全滅的荒廃の跡を見て何ら悔恨の念も無く不思議と平然たるものであった。自分の家という感じがなく自分の物という感じも無・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・「お母さん、箪笥の鍵はどこにあります?」僕はいよいよ残酷な決心の実行に取りかかった。「知りませんよ」と、母は曖昧な返事をした。「知らないはずはない。おれの家をあずかっていながらどんな鍵でもぞんざいにしておくはずはない」「実は・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・天保の饑饉年にも、普通の平民は余分の米を蓄える事が許されないで箪笥に米を入れて秘したもんだが、淡島屋だけは幕府のお台を作る糊の原料という名目で大びらに米俵を積んで置く事が出来る身分となっていた。が、富は界隈に並ぶ者なく、妻は若くして美くしく・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この煎薬を調進するのが緑雨のお父さんの役目で、そのための薬味箪笥が自宅に備えてあった。その薬味箪笥を置いた六畳敷ばかりの部屋が座敷をも兼帯していて緑雨の客もこの座敷へ通し、外に定った書斎らしい室がなかったようだ。こんな長屋に親の厄介となって・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
出典:青空文庫