・・・「素面だからな。」 と歎息するように独言して、扱いて片頬を撫でた手をそのまま、欄干に肱をついて、遍く境内をずらりと視めた。 早いもので、もう番傘の懐手、高足駄で悠々と歩行くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すの・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・あれは女優と言って、舞台にいるときよりも素面でいるときのほうが芝居の上手な婆で、おおお、またおれの奥の虫歯がいたんで来た。あれは地主と言って、自分もまた労働しているとしじゅう弁明ばかりしている小胆者だが、おれはあのお姿を見ると、鼻筋づたいに・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・と称して近所の家を回って米やあずきや切り餅をもらって歩いて、それで翌朝十五日の福の粥を作るという古い習慣が行なわれていた。素面ではさすがにぐあいが悪いと見えてみんな道化た仮面をかぶって行くことになっていたので、その時期が来ると市中の荒物屋や・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・今度は麻酔をかけようかと云ったら、やはり承知しないのでまた素面で手術を受けてとうとう完全な舌切婆さんになったということであった。その後がどうなったかは聞かなかったような気がする。 その頃、自分の家ではあまりかからなかったが、親類で始終頼・・・ 寺田寅彦 「追憶の医師達」
・・・ 彼女は全く酔っ払いだった。彼女の、コムパスは酔眼朦朧たるものであり、彼女の足は蹌々踉々として、天下の大道を横行闊歩したのだ。 素面の者は、質の悪い酔っ払いには相手になっていられない。皆が除けて通るのであった。 彼女は、瀬戸内海・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ マクシムの命を救ったのは彼の沈着で豪毅な気性と素面であったことであった。この椿事のためにマクシムは七週間も患った。その夏ヴォルガ河口に在るアストラハン市で凱旋門を建てる仕事があって、マクシムは妻子をつれ移住した。四年ぶりでニージニへ戻・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫