・・・が、やがて置き時計の針を見ると、半ば機械的にベルの鈕を押した。 書記の今西はその響に応じて、心もち明けた戸の後から、痩せた半身をさし延ばした。「今西君。鄭君にそう云ってくれ給え。今夜はどうか私の代りに、東京へ御出でを願いますと。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・這入って見廻しただけで既に胴ぶるいの出そうな冷たさをもった部屋である。置時計、銅像、懸物、活花、ことごとくが寒々として見えるから妙である。 瓦斯ストーヴでもあると助かるが、さもなくて、大分しばらく待たされてから、やっと大きな火鉢の真中に・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・古ぼけた前世紀の八角の安時計が時を保つのに、大正できの光る置き時計の中には、年じゅう直しにやらなければならないのがある。 すべてのものがただ外見だけの間に合わせもので、ほんとうに根本の研究を経て来たものでないとすると、実際われわれは心細・・・ 寺田寅彦 「断水の日」
朝早く目がさめるともうなかなか二度とは寝つかれない。この病院の夜はあまりに静かである。二つの時計――その一つは小形の置き時計で、右側の壁にくっつけた戸棚の上にある、もう一つは懐中時計でベットの頭の手すりにつるしてある――こ・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・ 真夜中頃に、枕頭の違棚に据えてある、四角の紫檀製の枠に嵌め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。夢のうちにこの響を聞いて、はっと眼を醒ましたら、時計はとくに鳴りやんだが、頭のなかはまだ鳴ってい・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ 隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻を打つまでには、きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室する。そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。自分は侍である。 も・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 彼等は再び沈黙した。 置時計の小刻みなチクタクが夜の静寂を量った。 翌朝、さほ子は重大事件があると云う顔つきで、朝飯を仕舞うと早速独りで外出した。 彼女は街のポウストにれんを呼び戻すはがきを投函し、一つ紙包を下げて帰って来・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・誰かが手をのばして広間に飾ってある置時計を盗んだ。すぐ続いて次の手、次の手、たちまち熱く叫ぶ声が前方からおちて来た。 ――タワーリシチ! 何にもさわるな! 取るな! みんな民衆の財産だ! 広間から広間へ進むにつれ叫びはあっちこっちか・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・ 弁当を包んでいると、置時計を見た重吉が、俄に、「ひろ子、あの時計あっているかい」と云った。「あっていると思うわ」「ラジオかけて御覧」 丁度中間で、いくらダイアルをまわしても聴えて来る音楽もなかった。重吉は、いそいで・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・ 違棚の上でしつっこい金の装飾をした置時計がちいんと一つ鳴った。「もう一時だ。寝ようかな。」こう云ったのは、平山であった。 主客は暫くぐずぐずしていたが、それからはどうした事か、話が栄えない。とうとう一同寝ると云うことになって、・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫