・・・ 群衆の中には、酒に酔った男がいました。「ああ、呼んでみせろ! もし、おまえが呼んでみせたら、いくらでも、ほしいほどの金をやるから。」といいました。 子供は、うなずいて、空を仰ぎました。雲はちぎれちぎれに高らかに飛んでいました。・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 群衆は、口々にそんなことをいいました。「五日分の食物を用意していったそうです。」「そうすれば、あと二日しかないはずだ。」「それまでに帰ってくるでしょうか。」「なんともいえませんが、神に祈って待たなければなりません。」・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・広い会所の中は揉合うばかりの群衆で、相場の呼声ごとに場内は色めきたつ。中にはまた首でも縊りそうな顔をして、冷たい壁に悄り靠れている者もある。私もそういう人々と並んで、さしあたり今夜の寝る所を考えた。場内の熱狂した群衆は、私の姿など目にも留め・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ちょうど一競走終ったところらしく、スタンドからぞろぞろと引き揚げて来る群衆の顔を、この中に一代の男がいるはずだとカッと睨みつけていると、やあ済まん済まんと作家が寄って来て、君を探していたんだよ。どうやら朝からスリ続けて、寺田が持って来る原稿・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・よしんばそれが耳かきですくう程のささやかな己惚れにせよ、人はそのかけらにすがって群衆の波に漂うているのではなかろうか。果して小人だけが己惚れを持つものだろうか。己惚れは心卑しい愚者だけの持つものだろうか。そうとも思えない。例えば作家が著作集・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・たちまちにして悪声が起こり、瓦石の雨が降った。群衆はしかしあやしみつつ、ののしりつつもひきつけられ、次第に彼の熱誠に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・けれども、今夜の老博士は、この新宿の大群衆の中で、おそらくは一ばん自信のある人物なのでございます。幸福をつかむ確率が最も大きいのでございます。博士は、ときどき、思い出しては、にやにや笑い、また、ひとり、ひそかにこっくり首肯して、もっともらし・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そうしてみんな、あの平民的とやらの群衆の中にまぎれこんで行きます。私は、せめて、此のおばあちゃんひとりを、花火のように、はかなく華麗に育ててゆきます。さようなら、おわかれの、いいえ、握手よ。私、自惚れてもいいこと? あなたは、きっと、私のと・・・ 太宰治 「古典風」
・・・と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・そうしてそれが雑然たる群衆ではなくて、ほとんど数学的「鋼鉄的」に有機的な設計書の精細な図表に従って、厳重に遂行されなければならない性質のものである。しかもそれはこれに併行する経済的の帳簿の示す数字によって制約されつつ進行するのである。細かく・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
出典:青空文庫