・・・その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。「どれ、もう起きようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出ると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝いていまし・・・ 小川未明 「野ばら」
・・・ 鳥の羽音、囀る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車荷車の林を廻り、坂を下り、野路を横ぎる響。蹄で落葉を蹶散らす音、これは騎兵演習の斥候か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅の柘榴の樹の周りに大きな熊蜂がぶーんと羽音をさせているのが耳に立った。 その三 色々な考えに小な心を今さら新に紛れさせながら、眼ばかりは見るものの当も無い・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・るに、来し路を元のところまで返りて行かんもおかしからねばとて、おおよその考えのみを心頼みに、人にさえ逢えば問いただして、おぼつかなくも山添いの小径の草深き中を歩むに、思いもかけぬ草叢より、けたたましき羽音させていと烈しく飛びたつものあり。何・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・熱い空気に蒸される林檎の可憐らしい花、その周囲を飛ぶ蜜蜂の楽しい羽音、すべて、見るもの聞くものは回想のなかだちであったのである。其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 手飼の白鳩が五六羽、離れの屋根のあたりから羽音を立てて芝生へ下りる。「あの鴎は綺麗な鳥ですね」と藤さんがいう。「あれは鳩じゃありませんか」「ほほほほ、あれじゃないんですの。あたしね、ほほほほ」「どうしたんです?」「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・の場合、お客をすきというよりは、お客におびえている、とでも言いたいくらいで、玄関のベルが鳴り、まず私が取次ぎに出まして、それからお客のお名前を告げに奥さまのお部屋へまいりますと、奥さまはもう既に、鷲の羽音を聞いて飛び立つ一瞬前の小鳥のような・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・ においが有るか無いか、立ちどまって、ちょっと静かにしていたら、においより先に、あぶの羽音が聞えて来た。 蜜蜂の羽音かも知れない。 四月十一日の春昼。 太宰治 「春昼」
・・・いつものように夫婦仲よく並んで泳いでいたひとつがいの雄鳥のほうが、実にはなはだ突然にけたたましい羽音を立てて水面を走り出したと思うとやがて水中に全身を没してもぐり込んだ。そうしてまっしぐらに水中をおそらく三メートル以上も突進して行って、静か・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・蝗の大群である。これは写真としてはリリュストラシオンのさし絵で見た事はあったが、これが映画になったのはおそらく今度が始めてであり、ことに発声映画としてはこれがレコードであるにちがいない。蝗の羽音がどれだけ忠実に再現されているかは明らかでない・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫