・・・森の梢に群れていた鴉の一羽立ち二羽立つ羽音が淋しい音を空に引く。今更らしく死んだ人を悲しむのでもなく妹の不幸を女々しく悔やむのでもないが、朝に晩に絶間のない煩いに追われて固く乾いた胸の中が今日の小春の日影に解けて流れるように、何という意味の・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・ばったが驚いて飛び出す羽音も快い。芝原のまわりは小松原が取り巻いて、すみのところどころには月見草が咲き乱れていた。その中を踏み散らして広い運動場を一回りするうちに、赤い日影が時計台を染めて賄所の井戸が威勢よくきしり始めるのであっ・・・ 寺田寅彦 「花物語」
・・・側は漂渺たる隅田の川水青うして白帆に風を孕み波に眠れる都鳥の艪楫に夢を破られて飛び立つ羽音も物たるげなり。待乳山の森浅草寺の塔の影いづれか春の景色ならざる。実に帝都第一の眺めなり。懸茶屋には絹被の芋慈姑の串団子を陳ね栄螺の壼焼などをも鬻ぐ。・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・俄かに空を羽音がして、雁の一列が通りました時、須利耶さまは窓からそれを見て、思わずどきっとなされました。 そうして冬に入りましたのでございます。その厳しい冬が過ぎますと、まず楊の芽が温和しく光り、沙漠には砂糖水のような陽炎が徘徊いたしま・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ 立て 餓えたるものよ 今ぞ日は近し これは歴史の羽音である。自分は臭い監房の真中に突立ち全く遠ざかってしまうまで飛行機の爆音に耳を澄した。 三畳足らずの監房に女が六人坐っている。売淫。堕胎。三人の年とった、ヒスイの・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 幾分か経ったろう、読みふけて居って自分は、いきなりバサリと音を立てながら、傍にのべた紙に落ちた虫の羽音に驚かされた。 夜更けるまで仕事をして、少し頭がつかれたとき人はひどく神経質になる、私はひどく臆病になる、 又蛾が来たのかな・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・ イキなり、ほんとにいきなり小虫はからだに似合わない強い力のこもった羽音をたてて人を馬鹿にしたように青空にとんでってしまった。 私は生きながら花にとらわれて居た羽虫ときっと一匹ずつの羽虫の御宿をして居た花とは前の世からキッシリと何か・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・すると、急にどっかからつよい羽音がきこえたと思うと、茶の間にいる母の、「あらっ! 鳩! 鳩!」という叫び声がきこえ、同時にすーっと軒さきをくぐるようにして、ほんとに白い鳩が家のなかからとび出して来た。「鳩が入って来たのよ――鳩だ・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・あまりの羽音に「きも」を奪われたのか、犬はその後には目もくれずにじめじめした土間を嗅ぎ廻る。 この急に持ち上った騒動に坐って居るものは立ち上り、ねころんで居た者は体を起した。一番年上の男の子は、いきなり炉から燃えさしの木の大きな根っこを・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫