・・・しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり、人気のないようにしんとしています。 遠藤はその光を便りに、怯ず怯ずあたりを見廻しました。 するとすぐに眼にはいったのは、やはりじっと椅子にかけた、死人のような妙子・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
……わたしはこの温泉宿にもう一月ばかり滞在しています。が、肝腎の「風景」はまだ一枚も仕上げません。まず湯にはいったり、講談本を読んだり、狭い町を散歩したり、――そんなことを繰り返して暮らしているのです。我ながらだらしのない・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ が、いくら透して見ても、松や芒の闇が深いせいか、肝腎の姿は見る事が出来ない。ただ、咄嗟に感づいたのは、その足音がこちらへ来ずに、向うへ行くらしいと云う事である。「莫迦な、この路を歩く資格は、おればかりにある訳じゃあるまいし。」・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上って、肝腎のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐ろしい衝動を感じてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物が二つに分れて一つはクララの父となり、一つは母となった・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 入費は、町中持合いとした処で、半ば白痴で――たといそれが、実家と言う時、魔の魂が入替るとは言え――半ば狂人であるものを、肝心火の元の用心は何とする。……炭団、埋火、榾、柴を焚いて煙は揚げずとも、大切な事である。 方便な事には、杢若・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ これで、勘定が――道中記には肝心な処だ――二円八十銭……二人分です。「帳場の、おかみさんに礼を言って下さい。」 やがて停車場へ出ながら視ると、旅店の裏がすぐ水田で、隣との地境、行抜けの処に、花壇があって、牡丹が咲いた。竹の垣も・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・そして言っておくが、皆の衆決して私 と、そういっておあるきなすッたそうさね、そして肝心のお邸を、一番あとまわしだろうじゃあないかえ、これも酷いわね。」 三「うっちゃっちゃあおかれない、いえ、おかれないどころじ・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・あなたを悦ばせようと申した事は、母や姉は随分不承知なようですが、肝心な兄は、「お前はおとよさんと一緒になると決心しろ」と言うてくれたのです。兄は元からおとよさんがたいへん気に入りなのです。もう私の体はたいした故障もなくおとよさんのものです。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「先生も御如才はないでしょうが――この月中が肝心ですから、ね」と、お袋の別れの言葉はまたこうであった。「無論ですとも」と答えたが、僕はあとで無論もくそもあったものかという反抗心が起った。そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・例えば甲の社員の提言を容れて直ぐ実行してくれと命じたものを乙の社員の意見でクルリと飜えして肝腎の提言者に通告もしないでやめてしまう。そんな事とは知らないから前に命ぜられた社員は着々進行して率ざ実現しようとなると、「アレはやめにした、」とケロ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
出典:青空文庫