・・・惣助はそれでも盥の傍から離れず母者人の肩越しに太郎の顔を覗き、太郎、なに見た、太郎、なに見た、と言いつづけた。太郎はあくびをいくつもいくつもしてからタアナカムダアチイナエエというかたことを叫んだ。 惣助は夜、寝てからやっとこのかたことの・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・自分は父の机の前に足と投出したままで無心に華車な浴衣の後姿から白い衿頸を見上げた時、女は肩越しにチラと振り向いたと思う間に戸をはたとしめた。この時の女の顔は不思議な美しさに輝いて、涼しい眼の中に燃ゆるような光は自分の胸を射るかと思ったが、や・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ 後から覗いていた母は、黙って、私の手を肩越しに掴んだ。そして、力を入れ、先刻の言葉がまた聞えるように思う程、はっきりはっきり定りどころをきめて、もう一度、いの字を書いた。そして、たった一言いった。「さあ。」 私は、すっかり上気せあ・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・ こまかく折畳んだ紙片が肩越しに順ぐり送られてきた。最前列の女が席を立ってそれを舞台の上、演壇の下に出されてる投書受箱へ入れてきた。 ――タワーリシチ! 今夜盛大な第十回世界無産婦人デーの夕を持つことは実に愉快であります。何々区ソヴ・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・女はそうと立って行って光君の肩越しにのぞくとこの間の宴の時に紫の君の詠んだうたを幾通りにも幾通りにも書きながして居たので、何か見出したようにかるくほほ笑んでかげに行ってしまった。こんなにえきれない、うつらうつらとした日を光君は毎日送って居る・・・ 宮本百合子 「錦木」
出典:青空文庫