・・・彼は丁度耳の下に黄いろい膏薬を貼りつけていた。「何人もの接吻の為に?」「そんな人のように思いますがね」 彼は微笑して頷いていた。僕は彼の内心では僕の秘密を知る為に絶えず僕を注意しているのを感じた。けれどもやはり僕等の話は女のこと・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・その腸を二升瓶に貯える、生葱を刻んで捏ね、七色唐辛子を掻交ぜ、掻交ぜ、片襷で練上げた、東海の鯤鯨をも吸寄すべき、恐るべき、どろどろの膏薬の、おはぐろ溝へ、黄袋の唾をしたような異味を、べろりべろり、と嘗めては、ちびりと飲む。塩辛いきれの熟柿の・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「そうさなア、おれが負けたら、皹の膏薬をおまえにやろう」「あらア人をばかにして、……そんならわたしが負けたら一文膏薬を省さんにあげべい。ハハハハ」 仕事着といっても若いものたちには、それぞれ見えがある。省作は無頓着で白メレンスの・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・切傷の直ぐ癒る膏薬を売っている店があります。見世物には猿芝居、山雀の曲芸、ろくろ首、山男、地獄極楽のからくりなどという、もうこの頃ではたんと見られないものが軒を列べて出ていました。 私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふ・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ 煤けた障子の膏薬張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の部屋だけが立派だ。ああいう・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「晩にね、僕が、煙草の吸殻を飯粒で練って、膏薬を製ってやろう」「宿へつけば、どうでもなるんだが……」「あるいてるうちが難義か」「うん」「困ったな。――どこか高い所へ登ると、人の通る路が見えるんだがな。――うん、あすこに高・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・リノリュームが膏薬のように床板の上へ所々へ貼りついていた。テーブルも椅子もなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物ででもあるかのように、ジクジクと汗が滲み出したが、何となくどこか寒いような気持があった。それに黴の臭いの外に、胸の悪くなる特・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ お前が夜更けて、独りその内身の病毒、骨がらみの梅毒について、治療法を考え、膏薬を張り、神々を祈願し、嘆いていることは、まだ極めて少数の赤ん坊より外知らないんだ。 だから、今、お前はその実際の力も、虚勢も、傭兵をも動員して、殺戮本能・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・財産税だけでは危くなって来て、なんとか処置をしなければならなくなって、そこで支払い停止のモラトリアムということをしまして、私たちは、小さな膏薬みたいなものを貰って、十円札に貼りつけて歩いております。あれだけの小さな証紙、あの悪い印刷の小さな・・・ 宮本百合子 「幸福について」
・・・ 鎌で切った処さあ悪いものが入ったそうで、切って二針三針縫って膏薬くれたばかりで御隠居様、有りもしねえ銭十両がな取られやした。 少し金があればはれもの出来したり、不幸が続いたりしやして、島の伯父家にも、お鳥が実家さも、不義理がかさみ・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫