・・・幾たびも飛び出す樫鳥は、そんな私を、近くで見る大きな姿で脅かしながら、葉の落ちた欅や楢の枝を匍うように渡って行った。 最後にとうとう谿が姿をあらわした。杉の秀が細胞のように密生している遙かな谿! なんというそれは巨大な谿だったろう。遠靄・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・又打死はしたが、相国寺の戦に敵の総帥の山名宗全を脅かして、老体の大入道をして大汗をかいて悪戦させたのは安富喜四郎であった。それほど名の通った安富の家の元家が、管領細川政元を笠に被て出て来ても治まらなかったというのは、何で治まらなかった歟、納・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・故もない不安はまだ続いていて、絶えず彼女を脅かした。袖子は、その心配から、子供と大人の二つの世界の途中の道端に息づき震えていた。 子供の好きなお初は相変わらず近所の家から金之助さんを抱いて来た。頑是ない子供は、以前にもまさる可愛げな表情・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・幕末勇士などに扮した男優の顔はいかなる蛮族の顔よりもグロテスクで陰惨なものであるが、それが特別に民衆に受けると見えてそれらの網目版が至るところの店先で自分をにらみつけ、脅かし圧迫した。 長い間縁の切れていた活動映画が再び自分の日常生活の・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ 子供の時分にこの臆病な私の胆玉を脅かしたものの一つは雷鳴であった。郷里が山国で夏中は雷雨が非常に頻繁であり、またその音響も東京などで近頃聞くのとは比較にならぬほど猛烈なものであったような気がする。これは単に心理的にそう思われたばかりで・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・そのときの印象がよほど強く深かったと見えて、それから長年月の後までも時々夢魔となって半夜の眠りを脅かしたそうである。また同じ島に滞在中のある夜琉球人の漁船が寄港したので岸の上から大声をあげて呼びかけたら、なんと思ったかあわてて纜をといて逃げ・・・ 寺田寅彦 「小浅間」
・・・近辺の台所を脅かしていた大きな黒猫が、縁の下に竹や木材を押し込んである奥のほうで二匹の子を育てていた。一つは三毛でもう一つはきじ毛であった。 単調なわが家の子供らの生活の内ではこれはかなりに重大な事件であったらしい。猫の母子の動静に関す・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・いつでも脅かしに男下駄を玄関に出しておくのが、お京の習慣で、その日も薩摩下駄が一足出ていた。米材を使ってはあったけれど住み心地よくできていた。 不幸なお婆さんが、一人そこにいた。お絹の家の本家で、お絹たちの母の従姉にあたる女であったが、・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・婦人の安い労働賃金、青少年の安い労働賃金、それはいつも成年男子の賃金の安定を脅かして来た。失業の予備軍となっている。しかしそういう点で共通の幸福を守ること、その協力の意味を理解しない男の人たちは、組合が要求するから仕方がないようなものの、女・・・ 宮本百合子 「明日をつくる力」
・・・ この四五年の急に動く世相は、大多数の人々の日常生活を脅かして、経済的な不安とともに文化的な面で貧しくさせて来ている。そのことは純文学の単行本の売れゆきのわるさ、その対策の推移を見てもはっきりしていると思う。小説の単行本が売れないと・・・ 宮本百合子 「「大人の文学」論の現実性」
出典:青空文庫