・・・洗面台に犯人の遺した腕時計が光っていて、それが折から金につまった小娘を誘惑する。ここはなかなかこの娘役者の骨の折れるところであろう。多分胸の動悸を象徴するためであろうか、機関車のような者を舞台裏で聞かせるがあれは少し変である。 容疑者の・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・カムパネルラが地図と腕時計とをくらべながら云いました。「ああ、ではわたくしどもは失礼いたします。」ジョバンニは、ていねいに大学士におじぎしました。「そうですか。いや、さよなら。」大学士は、また忙がしそうに、あちこち歩きまわって監督を・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ 赤シャツは右腕をあげて自分の腕時計を見て何気なく低くつぶやきました。「あいつは十五分進んでいるな。」それから腕時計の竜頭を引っぱって針を直そうとしました。そしたらさっきから仕度ができてめずらしそうにこの新らしい農夫の近くに立ってそ・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・私の机の上には、クロームの腕時計[自注24]に小さい金の留金のついたのが、イタリー風の彫刻をした時計掛にかかってのっている。この時計は不正確なような正確なような愛嬌のある奴です。この頃は大体正確でね。日に幾度か私に挨拶をされています。夏にな・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ カーチャは腕時計をのぞき、それから放ぽり出されている書類入鞄をひろって、フェージャにわたしながら云った。 ――さ! この報告は今夜七時までに書記局へ行ってないじゃならないものよ。…… そして一寸皮肉に笑って、 ――「事務は・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 金網をかぶせた頑丈な自分の腕時計を彼は見た。 ――まだ二時間近く暇がある、室へ来ませんかね。 親切な眼をもったレーニングラード・ソヴェト文化部員ムイロフは革命のとき鍛冶屋だった。一九一三年からの党員だ。はじめて会った時、ムイロ・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・男はずっと年上で、黒いルバーシカ着て、金の腕時計をつけている。女の手を自分の手の中にもって、ベズィメンスキーが舞台の上から云っているこなど耳に入れず、女に囁いている。 ――ね、一日おのばしよ。私があっちへは電報うってあげるから。――・・・ 宮本百合子 「ソヴェトの芝居」
私が女学校を出た年の秋ごろであったと思う。父が私に一つ時計を買ってくれた。生れてはじめての時計であった。ウォルサムの銀の片側でその時分腕時計というのはなかったから円くて平たい小型の懐中時計である。私は、それに黒いリボンをつ・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・ 腕時計を見た一人がつぶやいた。集りは一時から開かれる予定であった。「きいて来ましょうか」 建物の中へその人が入って行った。そして髯を生やした小柄な男と一緒に現れた。その髯をつけたひとは、ちょっと片手を腰に当てる恰好で、「徳・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・ 多喜子は腕時計を見て、椅子をおり、台所からもう一つ同じような三徳をもって来た。茶の間の火鉢からおこっている炭団をうつしていると、格子の鈴が鳴って、「いらっしゃる? あがってよくって?」 カタ、カタと足からぬがれて三和土に落ちる・・・ 宮本百合子 「二人いるとき」
出典:青空文庫