・・・おげんの容体の危篤なことが病院から直次の家へ伝えられた。おげんの臨終には親類のものは誰も間に合わなかった。 養生園以来、蔭ながら直次を通してずっと国から仕送りを続けていた小山の養子もそれを聞いて上京したが、おげんの臨終には間に合わなかっ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
緒方氏の臨終は決して平和なものではなかったと聞いている。歯ぎしりして死んでいったと聞いている。私と緒方氏とは、ほんの二三度話合っただけの間柄ではあるが、よい小説家を、懸命に努力した人間を、よほどの不幸の場所に置いたまま、そ・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・彼が許嫁の死の床に侍して、その臨終に立会った時、傍らに、彼の許嫁の妹が身を慄わせ、声をあげて泣きむせぶのを聴きつつ、彼は心から許嫁の死を悲しみながらも、許嫁の妹の涕泣に発声法上の欠陥のある事に気づいて、その涕泣に迫力を添えるには適度の訓練を・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・不安と苦痛の窮極まで追いつめられると、ふいと、ふざけた言葉が出るのです。臨終の人の枕もと等で、突然、卑猥な事を言って笑いころげたい衝動を感ずるのです。まじめなのです。気持は堪えられないくらいに厳粛にこわばっていながら、ふいと、冗談を言い出す・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ ふつうの人間は臨終ちかくなると、おのれの両のてのひらをまじまじと眺めたり、近親の瞳をぼんやり見あげているものであるが、この老人は、たいてい眼をつぶっていた。ぎゅっと固くつぶってみたり、ゆるくあけて瞼をぷるぷるそよがせてみたり、おとなし・・・ 太宰治 「逆行」
・・・数年前の夏、二階に泊っていた若い美しい人の妻の、肺で死んだ臨終のさまなど、小説などで読めば陳腐な事も、こうして聞けば涙が催される。浦の雨夜の茶話は今も心に残っているが、それよりも、婆さんの潮風に黒ずんだ顔よりも、垣の山吹よりも深く心に沁み込・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・そうして病人は臨終の間ぎわまで隣人の親切を身にしみるまで味わわされるのである。 三 田舎の自然はたしかに美しい。空の色でも木の葉の色でも、都会で見るのとはまるでちがっている。そういう美しさも慣れると美しさを感じな・・・ 寺田寅彦 「田園雑感」
・・・ 臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言って暇ごいをして、自分の死後妻には自由を与えてやってくれと遺言して、静かに息を引きとったそうである。 急を聞いて国へ帰っていた亮・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・跛で結伽のできなかった大燈国師が臨終に、今日こそ、わが言う通りになれと満足でない足をみしりと折って鮮血が法衣を染めるにも頓着なく座禅のまま往生したのも一例であります。分化はいろいろできます。しかしその標準を云うとまず荘厳に対する情操と云うて・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫