・・・艫舳、廻旋することを得ず。」(日本書紀 いかなる国の歴史もその国民には必ず栄光ある歴史である。何も金将軍の伝説ばかり一粲に価する次第ではない。 芥川竜之介 「金将軍」
・・・其の間に白帽白衣の警官が立ち交って、戒め顔に佩劔を撫で廻して居る。舳に眼をやるとイフヒムが居た。とぐろを巻いた大繩の上に腰を下して、両手を後方で組み合せて、頭をよせかけたまま眠って居るらしい。ヤコフ・イリイッチはと見ると一人おいた私の隣りに・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳の上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形に円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ されば今宵も例に依って、船の舳を乗返した。 腰を捻って、艪柄を取って、一ツおすと、岸を放れ、「ああ、良い月だ、妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得仏来、所経諸劫数、無量百千万億載阿僧祇、」と誦しはじめた。風も静に川波の声も聞えず、・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 横路地から、すぐに見渡さるる、汀の蘆の中に舳が見え、艫が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を戦がして、その船の胴に動いている。が、あの鉄鎚の音を聞け。印半纏の威勢のいいのでなく、田船を漕ぐお百姓らしい、もっさりとした布子のなりだけれども・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ まさにこの時、衝と舳の方に顕れたる船長は、矗立して水先を打瞶りぬ。俄然汽笛の声は死黙を劈きて轟けり。万事休す! と乗客は割るるがごとくに響動きぬ。 観音丸は直江津に安着せるなり。乗客は狂喜の声を揚げて、甲板の上に躍れり。拍手は夥し・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・ と波を打って轟く胸に、この停車場は、大なる船の甲板の廻るように、舳を明神の森に向けた。 手に取るばかりなお近い。「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」 その右側の露路の突当りの家で。…… ――死のうとした日の朝―・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 瞬間、島の青柳に銀の影が、パッと映して、魚は紫立ったる鱗を、冴えた金色に輝やかしつつ颯と刎ねたのが、飜然と宙を躍って、船の中へどうと落ちた。その時、水がドブンと鳴った。 舳と艫へ、二人はアッと飛退いた。紫玉は欄干に縋って身を転わす・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ ――馬だ――馬だ――馬だ―― 遠く叫んだ、声が響いて、小さな船は舳を煽り、漁夫は手を挙げた。 その泳いだ形容は、読者の想像に任せよう。 巳の時の夫人には、後日の引見を懇請して、二人は深く礼した。 そのまま、沼津に向って・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 船の舳の出たように、もう一座敷重って、そこにも三味線の音がしたが、時々哄と笑う声は、天狗が谺を返すように、崖下の庭は暮れるものを、いつまでも電燈がつかない。 小春の藍の淡い襟、冷い島田が、幾度も、縁を覗いて、ともに燈を待ちもした。・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
出典:青空文庫