・・・ 花時が終わって「もも」が実ってやがてそのさくが開裂した純白な綿の団塊を吐く、うすら寒い秋の暮れに祖母や母といっしょに手んでに味噌こしをさげて棉畑へ行って、その収穫の楽しさを楽しんだ。少しもう薄暗くなった夕方でも、このまっ白な綿の団塊だ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よ・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・前は桜樹の隧道、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半の屋根に止れる鳶二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じゃと云ううち左なる一羽嘲るがごとく此方を向きたるに皆々どっと笑う。道傍に並ぶ柱燈人造麝香の・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 明治三十一、二年の頃隅田堤の桜樹は枕橋より遠く梅若塚のあたりまで間隙なく列植されていたので、花時の盛観は江戸時代よりも遥に優っていたと言わなければならない。江戸時代にあっては堤上の桜花はそれほど綿密に連続してはいなかったのである。堤上・・・ 永井荷風 「向嶋」
一面、かなり深い秋霧が降りて水を流した様なゆるい傾斜のトタン屋根に星がまたたく。 隣の家の塀内にある桜の並木が、霧と光線の工合で、花時分の通りの美くしい形に見える。 白いサヤサヤと私が通ると左右に分れる音の聞える様・・・ 宮本百合子 「秋霧」
・・・警察署の裏、北向きの留置場では花時でも薄暗く、演武場の竹刀の音、すぐ横の石炭置場の奥にある犬小舎でキャン、キャンけたたましく啼き立てる野犬の声などがする。 南京虫が出て、おちおち眠られない。「夏になったらそれこそえらいもんだ。去年こ・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫