・・・ 姉は頭へ手をやったと思うと、白い菊の花簪をいきなり畳の上へ抛り出した。「何だ、こんな簪ぐらい。」 父もさすがに苦い顔をした。「莫迦な事をするな。」「どうせ私は莫迦ですよ。慎ちゃんのような利口じゃありません。私のお母さん・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 八田巡査はこれを見て、躊躇するもの一秒時、手なる角燈を差し置きつ、と見れば一枝の花簪の、徽章のごとくわが胸に懸かれるが、ゆらぐばかりに動悸烈しき、お香の胸とおのが胸とは、ひたと合いてぞ放れがたき。両手を静かにふり払いて、「お退き」・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 濡れても判明と白い、処々むらむらと斑が立って、雨の色が、花簪、箱狭子、輪珠数などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目も触らないで、御堂の方へ。 そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂が、雨を蒸して、・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・百眼売つけ髭売蝶売花簪売風船売などあるいは屋台を据ゑあるいは立ちながらに売る。花見の客の雑沓狼藉は筆にも記しがたし。明治三十三年四月十五日の日曜日に向嶋にて警察官の厄介となりし者酩酊者二百五人喧嘩九十六件、内負傷者六人、違警罪一人、迷児十四・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・五つをかしらに三人の子供たちをそのぐるりにあつめながら、バラの花簪などを髪にさした母のうたった唱歌は「青葉しげれる桜井の」だの「ウラルの彼方風あれて」だのであった。当時、父は洋行中の留守の家で、若かった母は情熱的な声でそれらの唱歌を高くうた・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・小さいベビー・オルガンが一台うちにあって、茶色絹のバラの花簪をさした若い母がそれを鳴らし、声はりあげて「ウラルの彼方、風荒れて」と歌った。軍艦のついたエハガキに、母がよく細かい字をぎっしり書いてイギリスの父へやっていた。正月で、自分はチリメ・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・無理に上げたようなお煙草盆に、小さい花簪を挿している。 白い手拭を畳んで膝の上に置いて、割箸を割って、手に持って待っているのである。 男が肉を三切四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。男に遠慮がないので・・・ 森鴎外 「牛鍋」
出典:青空文庫