・・・黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬ苦みがあるらしい。男も悄然として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・とにかく自分は余りの苦みに天地も忘れ人間も忘れ野心も色気も忘れてしもうて、もとの生れたままの裸体にかえりかけたのである。諸君は試みにこのような病人となったと思うてどういう心持がするか考えて見給え。○自分の病気について今一つ他人の多くは誤・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ 愛を失った事で或程度の苦味を嘗めた心は、人を計ろうとする奸策で汚され、其に成就した誇りで穢されなければならないのでございます。 其に比べれば、良人の受けた結果は、そういう性質を知らずに結婚した不明と、その策略を感じなかった事を賢く・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 甘みは微かで、苦みの勝ったこの茶をも、花房は翁の微笑と共に味わって、それを埋合せにしていた。 或日こう云う対坐の時、花房が云った。「お父うさん。わたくしも大分理窟だけは覚えました。少しお手伝をしましょうか」「そうじゃろう。・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・世に苦味走ったという質の男の顔に注がれている。 一の本能は他の本能を犠牲にする。 こんな事は獣にもあろう。しかし獣よりは人に多いようである。 人は猿より進化している。 森鴎外 「牛鍋」
出典:青空文庫