・・・胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い漢である。「へい。」 とただ云ったばかり、素気なく口を引結んで、真直に立っている。「おお、源助か。」 その職員室真中の大卓子、向側の椅子に凭った先・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・年内の御重宝九星売が、恵方の方へ突伏して、けたけたと堪らなそうに噴飯したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側一条、夜が鳴って、哄と云う。時なら・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・おとよの父は評判のむずかしい人であるから、この頃は朝から苦虫を食いつぶしたような顔をしている。おとよの母に対しては、これからは、あのはまのあまなんぞ寄せつけてはならんぞとどなった。 おとよはそれらの事を見ぬふり聞かぬふりで平気を装うてい・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・の洋楽流行時代に居合わして、いわゆる鋸の目を立てるようなヴァイオリンやシャモの絞殺されるようなコロラチゥラ・ソプラノでもそこらここらで聴かされ、加之にラジオで放送までされたら二葉亭はとても助かるまい。苦虫潰しても居堪まれないだろう。・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・むつかしやの苦虫の公爵が寝床の中でこの歌を始める。これがヴァレンティーヌ夫人、ド・ヴァレーズ伯爵、ド・サヴィニャク伯爵へと伝播する。最後の伯爵のガス排出の音からふざけ半分のホルンの一声が呼び出され、このラッパが鹿狩りのラッパに転換して爽快な・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
出典:青空文庫