・・・華美な浴衣を着た女たちが大勢、殊に夜の十二時近くなってから、草花を買いに出るお地蔵さまの縁日は三十間堀の河岸通にある。 逢うごとにいつもその悠然たる貴族的態度の美と洗錬された江戸風の性行とが、そぞろに蔵前の旦那衆を想像せしむる我が敬愛す・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・ 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみなら・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・「ジョンには四人の兄弟があって、その兄弟が、熊と獅子の周囲に刻みつけられてある草花でちゃんと分ります」見るとなるほど四通りの花だか葉だかが油絵の枠のように熊と獅子を取り巻いて彫ってある。「ここにあるのは Acorns でこれは Ambros・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・浜千さとの目路に塵をなみすずしさ広き砂上の月薔薇羽ならす蜂あたたかに見なさるる窓をうづめて咲くさうびかな題しらず雲ならで通はぬ峰の石陰に神世のにほひ吐く草花歌会の様よめる中に・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・其辺には野生の小さい草花が沢山咲いていて、向うの方には曼珠沙華も真赤になっているのが見える。人通りもあまり無い極めて静かな瘠村の光景である。附添の二人は其夜は寺へ泊らせて貰うて翌日も和尚と共にかたばかりの回向をした。和尚にも斎をすすめ其人等・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ その火がだんだんうしろの方になるにつれてみんなは何とも云えずにぎやかなさまざまの楽の音や草花の匂のようなもの口笛や人々のざわざわ云う声やらを聞きました。それはもうじきちかくに町か何かがあってそこにお祭でもあるというような気がするのでし・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・路のかたわらなる草花は或は赤く或は白い。金剛石は硬く滑石は軟らかである。牧場は緑に海は青い。その牧場にはうるわしき牛佇立し羊群馳ける。その海には青く装える鰯も泳ぎ大なる鯨も浮ぶ。いみじくも造られたる天地よ、自然よ。どうです諸君ご異議がありま・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 呑助が酒を取り上げられたのと同じになるのをつい此間から草花でまぎらす事を気がついた。 五六本ある西洋葵の世話だのコスモスとダーリアの花を数えたりして居る。 早りっ気で思い立つと足元から火の燃えだした様にせかせか仕だす癖が有るの・・・ 宮本百合子 「秋毛」
・・・窓の枠の上には赤い草花が二鉢置いてある。背後には小さい帷が垂れてある。 ツァウォツキイはすぐに女房を見附けた。それから戸口の戸を叩いた。 戸が開いて、閾の上に小さい娘が出た。年は十六ぐらいである。 ツォウォツキイにはそれが自分の・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・机の上の果物、花瓶、草花。あるいは庭に咲く日向葵、日夜我らの親しむ親や子供の顔。あるいは我らが散歩の途上常に見慣れた景色。あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物が、彼らに対して、「そこに在ることの不思議さ」を、・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫