・・・「うん、――昨夜夜っぴて煙草ばかり呑んでいたもんだから、すっかり舌が荒れてしまった。」 洋一は陰気な顔をして、まだ長い吸いさしをやけに火鉢へ抛りこんだ。「でもお母さんが唸らなくなったから好いや。」「ちっとは楽になったと見える・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・その上荒れはてた周囲の風物が、四方からこの墓の威厳を害している。一山の蝉の声の中に埋れながら、自分は昔、春雨にぬれているこの墓を見て、感に堪えたということがなんだかうそのような心もちがした。と同時にまた、なんだか地下の樗牛に対してきのどくな・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には烏もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて鮭の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒れていて、色が蒼い。 貴夫人はもう誰にも光と温とを授けることは出来ないだろう。 それで魚に同情を寄せるのである。 なんであの魚はまだ生を有していながら、死なね・・・ 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾いか、ものをいうよりはまず唇の戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交したばか・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・なんでもなん千年というむかし、甲斐と駿河の境さ、大山荒れがはじまったが、ごんごんごうごう暗やみの奥で鳴りだしたそうでござります。そうすると、そこら一面石の嵐でござりまして、大石小石の雨がやめどなく降ったそうでござります。五十日のあいだという・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいました。この挨拶に対して「否」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。しかるにここに・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 昔は、このあたりは、繁華な町があって、いろいろの店や、りっぱな建物がありましたのですけれど、いまは、荒れて、さびしい漁村になっていました。 春になると、城跡にある、桜の木に花が咲きました。けれど、この咲いた花をながめて、歌をよんだ・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・しぜん人も馬も重苦しい気持に沈んでしまいそうだったが、しかしふと通り魔が過ぎ去った跡のような虚しい慌しさにせき立てられるのは、こんな日は競走が荒れて大穴が出るからだろうか。晩秋の黄昏がはや忍び寄ったような翳の中を焦躁の色を帯びた殺気がふと行・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・私の眼はその荒れ寂びた空想のなかに、恐ろしいまでに鮮やかな一つの場面を思い浮かべる。それは夜深く海の香をたてながら、澄み透った湯を溢れさせている溪傍の浴槽である。そしてその情景はますます私に廃墟の気持を募らせてゆく。――天井の彼らを眺めてい・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫