・・・ 常子はやむを得ず荷造りに使う細引を一束夫へ渡した。すると彼はその細引に長靴の両脚を縛りはじめた。彼女の心に発狂と言う恐怖のきざしたのはこの時である。常子は夫を見つめたまま、震える声に山井博士の来診を請うことを勧め出した。しかし彼は熱心・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は良人の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って隅から隅まで目・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ある日、梅田新道にある柳吉の店の前を通り掛ると、厚子を着た柳吉が丁稚相手に地方送りの荷造りを監督していた。耳に挟んだ筆をとると、さらさらと帖面の上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤を弾くその姿がいかにもかいがいしく見えた。ふと視線が合・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・私は、親爺と二人で、荒蓆で荷造りをした、その荷物の上に腰かけていた。一と晩、一睡もしなかった。 十二月一日に入営する。姫路へは、その前日に着いた。しょぼ/\雨が降っていた。宿の傘を一本借りて、雨の中をびしょ/\歩きまわった。丁度、雪が積・・・ 黒島伝治 「入営前後」
・・・何かごとごと言わせて戸棚を片づける音、画架や額縁を荷造りする音、二階の部屋を歩き回る音なぞが、毎日のように私の頭の上でした。私も階下の四畳半にいてその音を聞きながら、七年の古巣からこの子を送り出すまでは、心も落ちつかなかった。仕事の上手なお・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ お客たちの来ないうちにと、私はその日にもう荷作りをはじめて、それから私もとにかく奥さまの里の福島までお伴して行ったほうがよいと考えましたので、切符を二枚買い入れ、それから三日目、奥さまも、よほど元気になったし、お客の見えないのをさいわ・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・朝押し入れから蒲団や行李を引き出して荷造りをしている間にも、宿を移ったとて私はどうなるだろうと思う。叔父さんや弟は、宿でも変えて気分を新たにしたら学校へ行けるような心持ちになるだろうという。私は学校のほうへ一歩も向かう勇気はもうない。いやだ・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 支度をしに二階へあがると、お絹もついてきて、荷造りをしてくれた。「こんなものはバスケットがいいんでしょう」お絹はそこにあった空気枕や膝掛けや、そうした手廻りのものを、手ばしこく纏めていた。 下へおりると、おひろが知らしたとみえ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・地震は、相変らず時々来るが、火事はまかさ来まいと思い、荷作りなどをしないでも大丈夫だと、下の婆さんに云って一先ずガード下に地震をよけて居るうちに、五時頃、段々火の手が迫って来るので、大きな荷物を四つ持ち、鎌倉河岸に避難した。始めは、材木や何・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
出典:青空文庫