・・・甚太夫は本望を遂げた後の、逃き口まで思い定めていた。 ついにその日の朝が来た。二人はまだ天が明けない内に、行燈の光で身仕度をした。甚太夫は菖蒲革の裁付に黒紬の袷を重ねて、同じ紬の紋付の羽織の下に細い革の襷をかけた。差料は長谷部則長の刀に・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・桜、菖蒲、山の雉子の花踊。赤鬼、青鬼、白鬼の、面も三尺に余るのが、斧鉞の曲舞する。浄め砂置いた広庭の壇場には、幣をひきゆい、注連かけわたし、来ります神の道は、(千道、百綱とも言えば、(綾を織り、錦と謡うほどだから、奥山人が、代々に伝えた紙細・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・景気の好いのは、蜜垂じゃ蜜垂じゃと、菖蒲団子の附焼を、はたはたと煽いで呼ばるる。……毎年顔も店も馴染の連中、場末から出る際商人。丹波鬼灯、海酸漿は手水鉢の傍、大きな百日紅の樹の下に風船屋などと、よき所に陣を敷いたが、鳥居外のは、気まぐれに山・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ あの桜山と、桃谷と、菖蒲の池とある処で。 しかし、それはただ青葉ばかりで、菖蒲の短いのがむらがってて、水の色の黒い時分、ここへも二日、三日続けて行きましたっけ、小鳥は見つからなかった。烏が沢山居た。あれが、かあかあ鳴いて一しきりし・・・ 泉鏡花 「化鳥」
・・・まだ葉ばかりの菖蒲杜若が隈々に自然と伸びて、荒れたこの広い境内は、宛然沼の乾いたのに似ていた。 別に門らしいものもない。 此処から中尊寺へ行く道は、参詣の順をよくするために、新たに開いた道だそうで、傾いた茅の屋根にも、路傍の地蔵尊に・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・……その時分には、降るように蛍が飛んで、この水には菖蒲が咲きます。」 夜汽車の火の粉が、木の芽峠を蛍に飛んで、窓にはその菖蒲が咲いたのです――夢のようです。……あの老尼は、お米さんの守護神――はてな、老人は、――知事の怨霊ではなかっ・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・静岡の何でも町端れが、その人の父が其処の屋敷に住んだところ、半年ばかりというものは不思議な出来事が続け様で、発端は五月頃、庭へ五六輪、菖蒲が咲ていたそうでその花を一朝奇麗にもぎって、戸棚の夜着の中に入れてあった。初めは何か子供の悪戯だろうく・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・一度五月の節句に、催しの仮装の時、水髪の芸子島田に、青い新藁で、五尺の菖蒲の裳を曳いた姿を見たものがある、と聞く。……貴殿はいい月日の下に生れたな、と言わねばならぬように思う。あるいは一度新橋からお酌で出たのが、都合で、梅水にかわったともい・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・と片手に猪口を取りながら、黒天鵝絨の蒲団の上に、萩、菖蒲、桜、牡丹の合戦を、どろんとした目で見据えていた、大島揃、大胡坐の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は蕃椒を食ったように、赤くなるまで赫と競勢って、「うはははは、う・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・葉ばかりの菖蒲は、根を崩され、霧島が、ちらちらと鍬の下に見えます。おお御隠居様、大旦那、と植木屋は一斉に礼をする。ちょっと邪魔をしますよ。で、折れかかった板橋を跨いで、さっと銀をよないだ一幅の流の汀へ出ました。川というより色紙形の湖です。一・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
出典:青空文庫