・・・やがて長藤君が秋山君名義で蓄えた貯金通帳を贈れば、秋山君は救ったものが救われるとはこのことだと感激の涙にむせびながら、その通帳を更生記念として発奮を誓ったが、かくて“人生紙芝居”の大詰がめでたく幕を閉じたこの機会にふたたび“人生双六”の第一・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。貯えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 彼は計画どおり三カ月の糧を蓄えて上京したけれども、坐してこれを食らう男ではなかった。 何がなおもしろい職を得たいものと、まず東京じゅうを足に任かして遍巡り歩いた。そして思いついたのは新聞売りと砂書き。九段の公園で砂書きの翁を見て、・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・そこは、空気が淀んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱や馬鈴薯の匂いが板蓋の隙間からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・使い慣れた古道具や、襤褸や、貯えてあった薪などを、親戚や近所の者達に思い切りよくやってしまった。「お前等、えい所へ行くんじゃ云うが、結構なこっちゃ。」古い箕や桶を貰った隣人は羨しそうに云った。「うら等もシンショウをいれて子供をえろうにし・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・で、蓄えていたところの珍貴な品を段と手放すようになった。鼎は遂に京口のきしょうほうの手に渡った。それから毘陵の唐太常凝菴が非常に懇望して、とうとう凝菴の手に入ったが、この凝菴という人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒識にも長け、勿論学・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・只宅にばかり居まして伎の事のみを考えて居りますから貯えとてもありません。お大名から呼びに来ても往きません。贔屓のお屋敷から迎いを受けても参りません。其の癖随分贅沢を致しますから段々貧に迫りますので、御新造が心配をいたします。なれども当人は平・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・台処の流許に流れる水は皆な凍りついた。貯えた野菜までも多く凍った。水汲に行く下女なぞは頭巾を冠り、手袋をはめ、寒そうに手桶を提げて出て行くが、それが帰って来て見ると、手の皮膚は裂けて、ところどころ紅い血が流れた。こうなると、お島は外聞なぞは・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・田舎のお百姓を相手のケチな商売にもいや気がさして、かれこれ二十年前、この女房を連れて東京へ出て来まして、浅草の、或る料理屋に夫婦ともに住込みの奉公をはじめまして、まあ人並に浮き沈みの苦労をして、すこし蓄えも出来ましたので、いまのあの中野の駅・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・いちど笑うと、なかなか、真面目な顔に帰れないもので、ねえ、てのひらを二つならべて一掬の水を貯え、その掌中の小池には、たくさんのおたまじゃくしが、ぴちゃぴちゃ泳いでいて、どうにも、くすぐったく、仁王立ちのまま、その感触にまいっている、そんな工・・・ 太宰治 「思案の敗北」
出典:青空文庫