・・・滅茶苦茶であった。虚無時代であった。恐怖時代であった。 棍棒は、剣よりもピストルよりも怖れられた。 生活は、農民の側では飢饉であった。検挙に次ぐ検挙であった。だが、赤痢ででもあるように、いくら掃除しても未だ何か気持の悪いものが後に残・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・榊山氏の文章は虚無的な色調の上に攪乱された神経と、破れて鋭い良心の破片の閃きとで或る種の市街戦の行われている国際都市の或る立場の人々としての現実を反映している。けれども、これらの文章の大体は、私たちが夜中にも立ち出て見送った兵士たちの生活と・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・その半面、経済的な社会生活の現実では、その激しい衝動を順調にみたしてゆく可能が奪われているから、虚無的な刹那的な官能のなかに、生存を確認する、というようなデカダンス文学が生れた。封建的な人間抑圧への反抗ということも、理由とされているが、それ・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・作者としてのゴーゴリは、わが心のよりすがるべき小さい気休めの小枝にもどんづまりまで皮肉と諷刺との鎌を当てていて、彼の涙と笑いの果いは、一種の虚無感が連っているようでさえある。 イリフ、ペトロフの「黄金の仔牛」の世界は、そういう意味では、・・・ 宮本百合子 「音楽の民族性と諷刺」
・・・無政府主義も虚無主義も名附親は分かっていますがね。」いつでも木村は何か考えながら、外の人より小さい声で、ゆっくり物を言う。それに犬塚に対する時だけは誰よりも詞遣いが丁寧である。それをまた犬塚は木村が自分を敬して遠ざけるように感じて、木村とい・・・ 森鴎外 「食堂」
・・・この思想の方嚮を一口に言えば、懐疑が修行で、虚無が成道である。この方嚮から見ると、少しでも積極的な事を言うものは、時代後れの馬鹿ものか、そうでなければ嘘衝きでなくてはならない。 次に人の目に附いたのは、衝動生活、就中性欲方面の生活を書く・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・彼は手を放したまま呆然たる蔵のように、虚無の中へ坐り込んだ。そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗き合せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・人が何らか積極的の生を営み得るためには「虚無」さえも偶像であり得る。 偶像が破壊せられなくてはならないのは、それが象徴的の効用を失って硬化するゆえである。硬化すればそれはもう生命のない石に過ぎぬ。あるいは固定観念に過ぎぬ。けれどもこの硬・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
・・・それのもたらした新事実をあげれば、まず自然科学の進歩、社会主義の勃興、一般人民の物質的享楽への権利の主張、徹底的な虚無主義の出現――芸術上においては様式の単純化、日常生活の外形的な細部の描写の成功などであるが、そこに著しい進歩があったとは言・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
・・・虫の音は、花の色は、すべての宇宙の美は、虚無でない、虚無でない「美」の底に悲哀が包まれたるは何の意味であるか。銀座の通りを行く。数十百の電車は石火の一刹那に駛せ違う。数百千の男女はエジプトの野を覆うという蝗の群れのように動いている。貴公は何・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫