・・・て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う提灯ばかりが、もう鬼灯ほどの小さ・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ とじっと見詰めると、恍惚した雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉のあたりを、ちらちらと蝶のように、紫の影が行交うと思うと、菫の薫がはっとして、やがて縋った手に力が入った。 お君の寂しく莞爾した時、寂寞とした位牌堂の中で、カタリと音・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 七 明眸の左右に樹立が分れて、一条の大道、炎天の下に展けつつ、日盛の町の大路が望まれて、煉瓦造の避雷針、古い白壁、寺の塔など睫を擽る中に、行交う人は点々と蝙蝠のごとく、電車は光りながら山椒魚の這うのに似ている。・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・な円髷に結った、顔の四角な、肩の肥った、きかぬ気らしい上さんの、黒天鵝絨の襟巻したのが、同じ色の腕までの手袋を嵌めた手に、細い銀煙管を持ちながら、店が違いやす、と澄まして講談本を、ト円心に翳していて、行交う人の風采を、時々、水牛縁の眼鏡の上・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・それの飛んで行った方角には日光に撒かれた虻の光点が忙しく行き交うていた。「痴呆のような幸福だ」と彼は思った。そしてうつらうつら日溜りに屈まっていた。――やはりその日溜りの少し離れたところに小さい子供達がなにかして遊んでいた。四五歳の童子・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・小松の温泉に景勝の第一を占めて、さしも賑わい合えりし梅屋の上も下も、尾越しに通う鹿笛の音に哀れを誘われて、廊下を行き交う足音もやや淋しくなりぬ。車のあとより車の多くは旅鞄と客とを載せて、一里先なる停車場を指して走りぬ。膳の通い茶の通いに、久・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・しかし、二人の胸の中に行き交う想いは、ヴァイオリンの音になって、高く低く聞こえている。その音は、あらゆる人の世の言葉にも増して、遣る瀬ない悲しみを現わしたものである。私がGの絃で話せば、マリアナはEの絃で答える。絃の音が、断えては続き続いて・・・ 寺田寅彦 「秋の歌」
・・・一面に陳列された商品がさき盛った野の花のように見え、天井に回るファンの羽ばたきとうなりが蜜蜂を思わせ、行交う人々が鹿のように鳥のようにまたニンフのように思われてくるのである。あらゆる人間的なるものが、暑さのために蒸発してしまって、夢のような・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・鏡の裏なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き交う人に気を配る辛らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永劫を極めて尽きざるを、渦捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行くわれの果は知らず・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・女達が華やかに笑いさざめいて行き交う街道の一重彼方には、まるで忘られたような、祖先のインディアンが、黒い着物に包まれて、森の中に暮して居ります。「女王」のお靴を磨きお髪あげをする黒坊の群も居ります。るろうの伊太利人は、バンジョーを胸から提げ・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫