・・・ 境はきょとんとして、「何だい、あれは……」 やがて膳を持って顕われたのが……お米でない、年増のに替わっていた。「やあ、中二階のおかみさん。」 行商人と、炬燵で睦まじかったのはこれである。「御亭主はどうしたい。」・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 少年は、おじいさんのしたように、薬売りになったり、筆や、墨を売る行商人になったりして、旅をつづけました。 ただ一つ、そのおじいさんの持っていたバイオリンにめぐりあうのに、頼みとするのは、小さな星のような真珠が、握り手のところにはい・・・ 小川未明 「海のかなた」
・・・父親は、怠け者で、その子の教育ができないために、行商にきた人にくれたのが、いま一人前の男となって、都会で相当な店を出している。このあいだから、だれか信用のおける小僧さんをさがしてくれと、私のところへ頼んできているのだが、どうだな、苦労もして・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・その主人の親戚で亀やんという老人が、青物の行商に毎日北田辺から出てくるが、もうだいぶ身体が弱っているので、車の先引きをしてくれる若い者を探してくれと頼まれていたらしい。帰って秋山さん――例の男は秋山といいました――に相談すると、賛成してくれ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・察しのつく通りアッパッパで、それも黒門市場などで行商人が道端にひろげて売っているつるつるのポプリンの布地だった。なお黒いセルロイドのバンドをしめていた。いかにも町の女房めいて見えた。胸を洗っているところを見ると、肺を病んでいるのだろうか、痩・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 一 秋の中過、冬近くなると何れの海浜を問ず、大方は淋れて来る、鎌倉も其通りで、自分のように年中住んで居る者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網の男、或は浜づたいに往通う行商を見るばかり、都人士らしい者の姿を見・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・佐野勝也氏の母は機を織ったり、行商したりして子どもの学資をつくった。後藤新平は母の棺の前に羽織、袴で端座して、弔客のあるごとに、両手をついて、「母上様誰それがきてくれました」と報じて、涙をこぼしたということだ。 母親が子どもを薫陶した例・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・路行く人や農夫や行商や、野菜の荷を東京へ出した帰りの空車を挽いた男なんどのちょっと休む家で、いわゆる三文菓子が少しに、余り渋くもない茶よりほか何を提供するのでもないが、重宝になっている家なのだ。自分も釣の往復りに立寄って顔馴染になっていたの・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・向い側に小間物を行商するらしい中年女が乗って、大きな荷物にもたれて断えず居眠りをしていた。浴衣の膝頭に指頭大の穴があいたのを丹念に繕ったのが眼についた。汚れた白足袋の拇指の破れも同じ物語を語っていた。 相場師か請負師とでもいったような男・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 新開地を追うて来て新たに店を構えた仕出し屋の主人が店先に頬杖を突いて行儀悪く寝ころんでいる目の前へ、膳椀の類を出し並べて売りつけようとしている行商人もあった。そこらの森陰のきたない藁屋の障子の奥からは端唄の三味線をさらっている音も聞こ・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
出典:青空文庫