・・・それでシャツを着ているのは宜いが、皆んなは燕尾服を着て来ているのだからというと、イブセンは自分の行李の中には燕尾服などは這入っていない、もし燕尾服を着なければならぬようなら御免蒙るという。御客を呼んで、その御客が揃っているのに、御免を蒙られ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・余は別れに臨んで君の送られたその児の終焉記を行李の底に収めて帰った。一夜眠られぬままに取り出して詳かに読んだ、読み終って、人心の誠はかくまでも同じきものかとつくづく感じた。誰か人心に定法なしという、同じ盤上に、同じ球を、同じ方向に突けば、同・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
私は行李を一つ担いでいた。 その行李の中には、死んだ人間の臓腑のように、「もう役に立たない」ものが、詰っていた。 ゴム長靴の脛だけの部分、アラビアンナイトの粟粒のような活字で埋まった、表紙と本文の半分以上取れた英訳・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・それに驚いて、鱶を一目見るや否や梯子を下りて来て、自分の行李から用意の薬を取り出し、それを袋のままで着て居る外套のカクシへ押し込んで、そうして自分の座に帰って静かに寝て居た。自分の座というのは自分が足を伸ばして寝るだけの広さで、同業の新聞記・・・ 正岡子規 「病」
・・・ そのうちに支那人は、手ばやく荷物へかけた黄いろの真田紐をといてふろしきをひらき、行李の蓋をとって反物のいちばん上にたくさんならんだ紙箱の間から、小さな赤い薬瓶のようなものをつかみだしました。(おやおや、あの手の指はずいぶん細いぞ。・・・ 宮沢賢治 「山男の四月」
・・・古行李をいじっていたら、新しい健康だわしが出ましたから、あれを使って益風邪を引くまいと思いますが、哀れなことには、うちのお風呂がこわれたのよ。そしてもう同じかまはないのよ。銅がないから。お寒くはないでしょうね。 十一月十八日 〔巣鴨・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・が、行李だの鞄だのを手に手に提げて、無言の裡に駭きの目を瞠りながら続々と到着して来る。そんな情景も、日本の新しい時代の姿であると思う。 それらの子供たちが、一年東京に働いた後に健康を害する率の多いことは、既に一般から重大な関心をもって視・・・ 宮本百合子 「国民学校への過程」
・・・五助は肩にかけた浅葱の嚢をおろしてその中から飯行李を出した。蓋をあけると握り飯が二つはいっている。それを犬の前に置いた。犬はすぐに食おうともせず、尾をふって五助の顔を見ていた。五助は人間に言うように犬に言った。「おぬしは畜生じゃから、知・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・石田は西の詰の間に這入って、床の間の前に往って、帽をそこに据えてある将校行李の上に置く。軍刀を床の間に横に置く。これを初て来た日に、お時婆あさんが床の壁に立て掛けて、叱られたのである。立てた物は倒れることがある。倒れれば刀が傷む。壁にも痍が・・・ 森鴎外 「鶏」
ロシアの都へ行く旅人は、国境を通る時に旅行券と行李とを厳密に調べられる。作者ヘルマン・バアルも俳優の一行とともに、がらんとした大きな室で自分たちの順番の来るのを待っていた。 霧、煙、ざわざわとした物音、荒々しい叫び声、息の詰まるよ・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫