・・・そんな気持で堯は行き過ぎる人びとを振り返った。が、誰もそれを見た人はなさそうだった。老人の坐っているところは、それが往来の目に入るにはあまりに近すぎた。それでなくても老人の売っているブリキの独楽はもう田舎の駄菓子屋ででも陳腐なものにちがいな・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・見て行き過ぎると、甲が、「今あの店にいたのは大友君じゃアなかッたか?」「僕も、そんな気がした。」「後姿が似ていた、確かに大友だ。」「大友なら宿は大東館だ」「何故?」「僕が大東館を撰んだのは大友君からはなしを聞いたのだ・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・先方では私が叔母の家の者であり、学校の先生ということで遇うたびに礼をして行き過ぎるのでございます、田舎の娘に似わない色の白い、眼のはっきりとした女で、身体つきよくおさよに似てすらりとしていました。城下の娘にもあのくらいなのは少ないなどと村の・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・しかし青年団員が一町も行過ぎるとまた点燈した。尤も電燈を消さなかったのは風呂屋の主人であるが、それを消させなかったのは浴客である。サイレンが鳴り、花火が上がり、半鐘が鳴っている最中に踵を接して暖簾を潜って這入って行く浴客の数は一人や二人では・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・今度こそと思ったのもまた行過ぎる。そんなことを繰返し繰返し十二時過ぎても眠られないで待っている。やっと車の音が玄関へ飛び込んで来ると思うと番頭や女中の出迎える物音がしてそうして急に世の中が賑やかに明るくなった。「ほう、まだ起きていたのか」と・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・知らぬ顔をして行き過ぎると穴から手を出して捕まえそうに烈しい呼び方をする。子規を顧みて何だと聞くと妓楼だと答えた。余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行っ・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫