・・・草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛手拭と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町中の住いの詩的情趣を、専ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭に・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙を薄く削った紙小刀が挟んである。巻に余って長く外へ食み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはた・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 花やかな金文字や赤や青の背表紙が余の眼を刺激しなかったばかりではない。純潔な白色でさえついに余の眼には触れずに済んだ。先生の食卓には常の欧洲人が必要品とまで認めている白布が懸っていなかった。その代りにくすんだ更紗形を置いた布がいっぱい・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・我等の為し得るところは、精々のところ他人の製作した者の中から、あの額縁この表紙を選定し指定するに過ぎない。しかもその選定や指定すら、多くの困難なる事情の下に到底満足には行かないのである。されば芸術品の表装は、我等の作品の一部分であるにかかは・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・ ゴム長靴の脛だけの部分、アラビアンナイトの粟粒のような活字で埋まった、表紙と本文の半分以上取れた英訳本。坊主の除れたフランスのセーラーの被る毛糸帽子。印度の何とか称する貴族で、デッキパッセンジャーとして、アメリカに哲学を研究に行くと云・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・この木ペンにはゴムもついていたと思いながら尻の方のゴムで消そうとしましたらもう今度は鉛筆がまるで踊るように二、三べん動いて間もなく表紙はあとも残さずきれいになってしまいました。さあ、キッコのよろこんだことこんないい鉛筆をもっていたらもう勉強・・・ 宮沢賢治 「みじかい木ぺん」
マルクス=エンゲルス全集というと、赤茶色クロース表紙の書籍が、私たちの目にある。この本のために、これまでの日本の読者は、どんなに愛情を経験し、また苦労をなめてきただろう。階級のある社会に生活をいとなんでいる以上、そのなかで・・・ 宮本百合子 「生きている古典」
・・・喫茶店で出すマッチね、あれは紙なしで――表紙に貼ってあるペーパーなしで、千箱入三円三十銭だったのが四円になったんだから、参りますよ。煙草の増税で二千万円ばかり収入があったそうだが、七割はバットだってね。バットは一個について一銭だから、率は一・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・ 綾小路は卓の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返して見た。「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」 そこへ雪が橢円形のニッケル盆に香茶の道具を載せて持って来た。そして小さい卓を煖炉の前へ運んで・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・腰懸の傍に置いてある、読みさしの、黄いろい表紙の小説も、やはり退屈な小説である。口の内で何かつぶやきながら、病気な弟がニッツアからよこした手紙を出して読んで見た。もうこれで十遍も読むのである。この手紙の慌てたような、不揃いな行を見れば見る程・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫