・・・と、斜に新蔵と向い合った、どこかの隠居らしい婆さんが一人、黒絽の被布の襟を抜いて、金縁の眼鏡越しにじろりと新蔵の方を見返したのです。勿論それはあの神下しの婆なぞとは何の由縁もない人物だったのには相違ありませんが、その視線を浴びると同時に、新・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ と、納戸で被布を着て、朱の長煙管を片手に、「新坊、――あんな処に、一人で何をしていた?……小母さんが易を立てて見てあげよう。二階へおいで。」 月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、二十一史、十三経注疏なんど本箱がずら・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 見れば渠らの間には、被布着たる一個七、八歳の娘を擁しつ、見送るほどに見えずなれり。これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ なふだに医学博士――秦宗吉とあるのを見た時、……もう一人居た、散切で被布の女が、P形に直立して、Zのごとく敬礼した。これは附添の雑仕婦であったが、――博士が、その従弟の細君に似たのをよすがに、これより前、丸髷の女に言を掛けて、その人品・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・合わした男と――いや、その男も実は、はじめて見たなどと話していると、向う側に、革の手鞄と、書もつらしい、袱紗包を上に置いて、腰を掛けていた、土耳古形の毛帽子を被った、棗色の面長で、髯の白い、黒の紋織の被布で、人がらのいい、茶か花の宗匠といっ・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ つくねんとして、一人、影法師のように、びょろりとした黒紬の間伸びた被布を着て、白髪の毛入道に、ぐたりとした真綿の帽子。扁平く、薄く、しかも大ぶりな耳へ垂らして、環珠数を掛けた、鼻の長い、頤のこけた、小鼻と目が窪んで、飛出した形の八の字・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・卓あり、粗末なる椅子二個を備え、主と客とをまてり、玻璃製の水瓶とコップとは雪白なる被布の上に置かる。二郎は手早くコップに水を注ぎて一口に飲み干し、身を椅子に投ぐるや、貞二と叫びぬ。 声高く応してここに駆け来る男は、色黒く骨たくましき若者・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・「礼ちゃんの被布ですよ、良い柄でしょう」 真蔵はそれには応えず、其処辺を見廻わしていたが、「も少し日射の好い部屋で縫ったら可さそうなものだな。そして火鉢もないじゃないか」「未だ手が凍結るほどでもありませんよ。それにこの節は御・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 私は、体じゅう俄に熱くなり、途方に暮れながら、被布の房を揺すって坐りなおした。筆を握ったが、先の方が変にくたくた他愛がなく、どんな風に動かしていいかわからない。正直にいえば、母が、どっちから、どう書き出したかも、余り珍しく熱心に気をと・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・正月で、自分はチリメンの袂のある被布をきせられていた。母が急に縁側へ出て槇の木の下に霜柱のたっている庭へ向い「バンザーイ! バンザーイ!」と両手を高く頭の上にあげ、叫んだ。声は鋭く、顔は蒼く、涙をこぼしている。自分はびっくりして泣きたくなり・・・ 宮本百合子 「年譜」
出典:青空文庫