・・・しばらく視覚の意識と眼球の作用を混同して云うと、昔し分化作用の行われぬうちは視力は必ずしも眼球に集中しておらなかったろう。私も遠い昔では、からだ全体で物を見ていたかも知れぬ、あるいは背中で物を舐めていたかも知れぬ。眼耳鼻舌と分業が行われ出し・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札の勘定をしている。札は十・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・マルグリットの文学の真似のしようのない美しさ純粋さは、視力を失うほど生活とたたかい、その苦しい生活の中にも理想をもって人間らしく生きようとした思いの凝固ったものとして作品の中に溢れている。 日本でも女の人ならお針だけは出来るからと、お針・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ その時分から松屋のを使いはじめ、永年、そればかりをつかっていたら、二、三年前、体がひどく疲労したことがあって、その弱っている視力に松屋のダーク・ブルーの、どっちかというと堅い感じの枠が大変苦しく窮屈に感じられた。困った、といっていたら・・・ 宮本百合子 「打あけ話」
・・・ 狭い狭い台所で、水のはねる音を小うるさくききながら、夫や舅の戻らないうちにと、筆の先に視力を集めて、はかの行かない筆を運ばせた。 一枚半ほどの手紙を書き終った時、パット世界が変るほど美くしい色に電気がついた。 大きな字で濃く薄・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・母はわたしの顔をおぼろの視力でようように見わけ十五分ののちに絶命した。 その一九三四年の十二月に、わたしは淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に移った。たった一人そこに住んでいた作者の生活は、近所の壺井繁治同栄、窪川稲子、一田アキな・・・ 宮本百合子 「解説(『風知草』)」
・・・全く視力の恢復の手間どるのは苦痛となって来ました。本はよめません。知っている字をこうやって半ば手の調子にたよって書くことの方が出来るのね、使う字もわかっているし。この頃は少し頭の疲れもしずまって来て、注意もやや集注するようになったので、眼の・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・と云われたことは、社会主義リアリズムへ展開して、もとよりその核心に立つ労働者階級の文学の主導性を意味しているのであるが、前衛の眼の多角性と高度な視力は、英雄的ならざる現実、その矛盾、葛藤の底へまで浸透して、そこに歴史がすすみ人間性がより花開・・・ 宮本百合子 「心に疼く欲求がある」
・・・ジャーナリストの眼には、ちらちら横に動くはやさのほかに、遠くのものを見とおせる航海者の視力と、ローリング・ピッチングにたえる脚の力がもとめられて来た。〔一九四九年十月〕 宮本百合子 「ジャーナリズムの航路」
・・・そのとき心臓と腎臓が破壊され視力も失い、言語も自由でなくなった。戦争の年々にそろそろ恢復したが、この三、四年来の繁忙な生活で去年の十二月、講演会のあと、動けなくなった。ある治療のおかげでこの五月ごろになってやっと二階から階下へ降りられるよう・・・ 宮本百合子 「孫悟空の雲」
出典:青空文庫