・・・動いて行く箱の中で腰の痛さに目が覚める。皮膚が垢だらけになったような気がする。いろいろな塵が髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入って来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせると旅行と称する娯楽の嫌悪すべき序開である。先この急行列・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・昔の感激主義に対して今の教育はそれを失わする教育である、西洋では迷より覚めるという、日本では意味が違うが、まあディスイリュージョン、さめる、というのであります。なぜ昔はそんな風であったか。話は余談に入るが、独逸の哲学者が概念を作って定義を作・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・ 翌朝眼が覚めると硝子戸に日が射している。たちまち文鳥に餌をやらなければならないなと思った。けれども起きるのが退儀であった。今にやろう、今にやろうと考えているうちに、とうとう八時過になった。仕方がないから顔を洗うついでをもって、冷たい縁・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・だがしばらくする中に、諸君はうたた寝の夢から醒める。そして汽車の進行する方角が、いつのまにか反対になり、西から東へと、逆に走ってることに気が付いてくる。諸君の理性は、決してそんなはずがないと思う。しかも知覚上の事実として、汽車はたしかに反対・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 当主は、寝ている処を、いきなり丸太ん棒、それも樫の木の、潜り門用の閂でドサッとやられたので、遺言を書こうにも書くまいにも、眼の覚める暇がなかったのであった。 で、家族のものは、泣きながら食卓の前に坐らされている、腹の空いた子供のよ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・眠りが覚めると、監獄の中に寝てるくせに、――まあよかった――と思う。引っ張られる時より引っ張られてからは、どんなに楽なものか。 私は窓から、外を眺めて絶えず声帯の運動をやっていた。それは震動が止んでから三時間も経った午後の三時頃であった・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・譬えば夢を見る人が、夢の感じの溢れたために、眼の覚めるのと同じように、この生活の夢の感じの力で、己は死に目覚めるのか。(息絶えて死の足許死。(首を振りつつ徐思えば人というものは、不思議なものじゃ。解すべからざるものをも解し、文に書かれぬ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・或る箱の葭簀の下では支那らんちゅうの目の醒めるようなのが魁偉な尾鰭を重々しく動かしていた。葭簀を洩れた日光が余り深くない水にさす。異様に白く、或は金焔色に鱗片が燦めき、厚手に装飾的な感じがひろ子に支那の瑪瑙や玉の造花を連想させた。「なあ・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともしないので、私は、あらこの海、香いのない花! と云ったことを覚えて居ります。日本の海はそういう点だけから見ればやはり相当ようございますね。 湯ざめがして来てさ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、そ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫