一 神田のある会社へと、それから日比谷の方の新聞社へ知人を訪ねて、明日の晩の笹川の長編小説出版記念会の会費を借りることを頼んだが、いずれも成功しなかった。私は少し落胆してとにかく笹川のところへ行って様子を聞いてみようと思って、郊・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・ その意味において書物とは、人間と人間との心の橋梁であり、人間共働の記念塔である。 読書の根本原理が暖かき敬虔でなくてはならぬのはこのためである。 二 生、労作そして自他 書物は他人の生、労作の記録、贈り物で・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・これにはそもそも歴史がある――ベエスの記念でサ」 学士は華やかな大学時代を想い起したように言って、その骨を挫かれた指で熱球を受け損じた時の真似までして見せた。 三人が連立って湯場を出、桜井先生の別荘の方へ上って行った時は、先生は皆な・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに仄暗く壁に懸っている。これが目につくと、久しぶりで自分の家に帰ってきでもしたように懐しくなる。床の上に、小さな花瓶に竜胆の花が四五本挿してある。夏二た月の逗留の間、自分はこの花瓶に入り替りしおらしい・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・全世界、どこの土地でも、私の短い一生を言い伝えられる処には、必ず、この女の今日の仕草も記念として語り伝えられるであろう」そう言い結んだ時に、あの人の青白い頬は幾分、上気して赤くなっていました。私は、あの人の言葉を信じません。れいに依って大袈・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・その家の食堂には、漫遊の記念品が飾ってある。小役人の家の食堂とは思われない。主人チルナウエルは客にこんな事を言う。「わたくしがラホレのマハラジャの宮殿にいました時の事ですが」なんと云う。昔話をするのか、大法螺を吹くのかと思われるのである。と・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・と云って、「あなたにお目に掛かった記念にしますから、二十マルクを一つ下さいな」と云ったっけ。 ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテクサメエトルを見たら五の所に針が行っていた。それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・この謎のような言葉の解釈を彼自身の口から聞く事の出来る日が来れば、それは物理学の歴史でおそらく最も記念すべき日の一つになるかもしれない。 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・これも恐ろしい数ある記念の一つである。蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹・・・ 永井荷風 「狐」
・・・そのほかにカーライルの八十の誕生日の記念のために鋳たという銀牌と銅牌がある。金牌は一つもなかったようだ。すべての牌と名のつくものがむやみにかちかちしていつまでも平気に残っているのを、もろうた者の煙のごとき寿命と対照して考えると妙な感じがする・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫