・・・と二人に問いました。記憶のいい上田も小首を傾けて、「そうサ、何を読んでいたかしらん、まさかまるきり遊んでもいなかったろうが」と考えていましたが、「机に向いていた事はよく見たが、何を専門にやっていたか、どうも思いつかれぬ、窪田君、覚え・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・純良な、世間知らずの学生がこの種の女に引っかかって、あたら青春の記憶を汚す例は少なくない。そのくらいではすまず、かなり大きな傷と負担を背負わされることがある。ことに妊娠というようなことにでもなれば、抜き差しならぬ破目に陥ることがある。これは・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・そういうあやしい者から五円札を受取った記憶もなかった。けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・で、自宅練修としては銘々自分の好むところの文章や詩を書写したり抜萃したり暗誦したりしたもので、遲塚麗水君とわたくしと互に相争って荘子の全文を写した事などは記憶して居ます。私は反古にして無くして仕舞いましたが、先達て此事を話し出した節聞いたら・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・三魂・六魂一空に帰し、感覚も記憶もただちに消滅しさるべき死者その人にとっては、なんのいたみもかなしみも、あるべきはずはないのである。死者は、なんの感ずるところなく、知るところなく、よろこびもなく、かなしみもなく、安眠・休歇にはいってしまうの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 小説嫌いの俺も、その言葉が面白かったので、記憶に残っていた。 その警視庁の高い足場の上で、腰に縄束をさげた労働者が働いていた……。それが小さく動いているのが見えた。 その日、予審廷の調べを終って、又自動車に乗せられると、今・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・賛否いずれとも決しかねたる真向からまんざら小春が憎いでもあるまいと遠慮なく発議者に斬り込まれそれ知られては行くも憂し行かぬも憂しと肚のうちは一上一下虚々実々、発矢の二三十も列べて闘いたれどその間に足は記憶ある二階へ登り花明らかに鳥何とやら書・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私の行く先にあるものは幼い日の記憶をよび起こすようなものばかりだ。暗い竹藪のかげの細道について、左手に小高い石垣の下へ出ると、新しい二階建ての家のがっしりとした側面が私の目に映った。新しい壁も光って見えた。思わず私は太郎を顧みて、「太郎・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・のお長の手枕にはじまって、絵に描いた女が自分に近よって、狐が鼬ほどになって、更紗の蒲団の花が淀んで、鮒が沈んで針が埋まって、下駄の緒が切れて女郎蜘蛛が下って、それから机の抽斗から片袖が出た、その二日の記憶である。自分は袖を膝の上に載せたまま・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 私はいまでも、はっきり記憶しているが、私はその短篇集を読んで感慨に堪えず、その短篇集を懐にいれて、故郷の野原の沼のほとりに出て、うなだれて徘徊し、その短篇集の中の全部の作品を、はじめから一つ一つ、反すうしてみて、何か天の啓示のように、・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫