一 凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。厠に立つと、窓硝子に庭の木の枝の影が激しく揺れ、師走の風であった。 そんな風の中を時代遅れの防空頭巾を被って訪れて来た客も、頭巾を脱げば師走の顔であった。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・けれど、私だって世間並みに一人の娘、矢張り何かが訪れて来そうな、思いも掛けぬことが起りそうな、そんな憧れ、といって悪ければ、期待はもっていた。だから、いきなり殺風景な写真を見せつけられ、うむを言わさず、見合いに行けと言われて、はいと承知して・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・本当に死んでしまったのかとそのアパートを訪れてみると、佐伯はまだ生きていて、うっかり私が洩らしたその噂をべつだん悲しみもせず、さもありなんという表情で受けとり、なにそのおれが死んだというデマは実はおれが飛ばしてやったんだと陰気な唇でボソボソ・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉の肚は、蝶子が別れると言・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 私の周囲へはすでに幾度か死が訪れて来た。最近にもまた本郷の若い甥の一人がにわかに腎臓炎で亡くなったという通知を受けた。ちょうど、私の家では次郎が徴兵適齢に当たって、本籍地の東京で検査を受けるために郷里のほうから出て来ていた時であった。・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・さすがにその秘密の仕事部屋には訪れて来るひとも無いので、私の仕事もたいてい予定どおりに進行する。しかし、午後の三時頃になると、疲れても来るし、ひとが恋しくもなるし、遊びたくなって、頃合いのところで仕事を切り上げ、家へ帰る。帰る途中で、おでん・・・ 太宰治 「朝」
・・・と山田君は久しぶりに私の寓居を訪れて、頗る緊張しておっしゃるのである。「大丈夫ですか。大隅君は、あれで、なかなかむずかしいのですよ。」大隅君は大学の美学科を卒業したのである。美人に対しても鑑賞眼がきびしいのである。「写真を、北京へ送・・・ 太宰治 「佳日」
・・・しく、命のほどさえ危き夜には、薄き化粧、ズボンにプレス、頬には一筋、微笑の皺、夕立ちはれて柳の糸しずかに垂れたる下の、折目正しき軽装のひと、これが、この世の不幸の者、今宵死ぬる命か、しかも、かれ、友を訪れて語るは、この生のよろこび、青春の歌・・・ 太宰治 「喝采」
・・・ その日、僕は誘われるがままに、また青扇のもとを訪れた。途中、青扇とわかれ、いったん僕の家へ寄り頭髪の手入れなどを少しして、それから約束したとおり、すぐに青扇のうちへ出かけたのである。けれども青扇はいなかったのだ。マダムがひとりいた。入・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・北さんと一緒に故郷の家を訪れてみないかというのである。私の故郷は、本州の北端、津軽平野のほぼ中央に在る。私は、すでに十年、故郷を見なかった。十年前に、或る事件を起して、それからは故郷に顔出しのできない立場になっていたのである。「兄さんか・・・ 太宰治 「帰去来」
出典:青空文庫