・・・昨年の夏、北さんに連れられてほとんど十年振りに故郷の生家を訪れ、その時、長兄は不在であったが、次兄の英治さんや嫂や甥や姪、また祖母、母、みんなに逢う事が出来て、当時六十九歳の母は、ひどく老衰していて、歩く足もとさえ危かしく見えたけれども、決・・・ 太宰治 「故郷」
・・・日々に訪れて来るのら猫の数でも少なくはない。なぜだろう。宿の人に聞いてみると、いないことはない。現に近くの発電所にも一匹はたしかにいるという。宿では食膳を荒らす恐れがあるから飼わないそうである。宿で前に七面鳥を飼っていたが、無遠慮に客室へは・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・の一番初めの話は、高い屋根裏の部屋で朝から晩までモール刺繍をして暮している娘の窓に月が毎晩訪れて、お話をして聴かせるという話だったと思う。都会の屋根うらのそういうふうな娘の人生を、アンデルセンは悲しい同情をもって理解した。 またこんどの・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・二篇とも、ストレプトマイシンが無料で闘病者のベッドに訪れて来る日を待っているのは、心をうたれる。ストレプトマイシンが療養所でつかわれる日を「何日かは春に」と待っているひとは、日本じゅうに、どれほどいるだろう。 「可哀そうな権力者」ひと・・・ 宮本百合子 「『健康会議』創作選評」
・・・ 元来、旅行好きな私は、いま迄、随分色々な処を訪れて見ましたが大抵は失望しました。いつも私の想像したツマリ期待の方が勝ち過ぎた結果でありましょう。然し、壮麗な一種の歴史の錆をとどめている「奈良」だけは、この我儘な私を充分満足させて呉れま・・・ 宮本百合子 「「奈良」に遊びて」
・・・十日立っての日ローズの部屋を訪れた詩人のかおは今までになく青ざめて目はうるんで何とも云わない内にローズの胸にすがって大きい目から涙を流して居ます。ローズは何でも動きやすい若い詩人の心をよく知って居ました。しずかにその頭を抱いてしずかなやさし・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
・・・彼は夜ごとに燭台に火を付けると、もしかしたらこっそりこの青ざめた花屋の中へ、死の客人が訪れていはしまいかと妻の寝顔を覗き込んだ。すると、或る夜不意に妻は眼を開けて彼にいった。「あなた、私が死んだら、幸福になるわね。」 彼は黙って妻の・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ 中世の末にヨーロッパの航海者たちが初めてアフリカの西海岸や東海岸を訪れたときには、彼らはそこに驚くべく立派な文化を見いだしたのであった。当時のカピタンたちの語るところによると、初めてギネア湾にはいってワイダあたりで上陸した時には、・・・ 和辻哲郎 「アフリカの文化」
・・・ 初めて早稲田南町の漱石山房を訪れたのは、大正二年の十一月ごろ、天気のよい木曜日の午後であったと思う。牛込柳町の電車停留場から、矢来下の方へ通じる広い通りを三、四町行くと、左側に、自動車がはいれるかどうかと思われるくらいの狭い横町があっ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
去年の八月の末、谷川君に引っ張り出されて北軽井沢を訪れた。ちょうどその日は雨になって、軽井沢駅に降りた時などは土砂降りであった。その中を電車の終点まで歩き、さらに玩具のように小さい電車の中で窓を閉め切って発車を待っていた時の気持ちは、・・・ 和辻哲郎 「寺田さんに最後に逢った時」
出典:青空文庫