・・・――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚られるような心もちがした。「妙な事ってどんな事を?」「半ダアス? 半ダアスは六枚じゃないかなんて。」「頭が・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、寝室の中からは何の話し声も聞えなかった。その沈黙がまた陳にとっては、一層堪え難い呵責であった。彼は目の前の暗闇の底に、停車場からここへ来る途中の、思いがけない出来事が、もう一度はっきり見えるような気がした。 ……枝を交した松の下には・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・、あるからっ風のひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所の占い者の所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障子のがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様で・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・僕等の話し声はこの松林の中に存外高い反響を起しました。殊にK君の笑い声は――K君はS君やM子さんにK君の妹さんのことを話していました。この田舎にいる妹さんは女学校を卒業したばかりらしいのです。が、何でも夫になる人は煙草ものまなければ酒ものま・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・しかし彼等の話し声はちょっと僕の耳をかすめて行った。それは何とか言われたのに答えた All right と云う英語だった。「オオル・ライト」?――僕はいつかこの対話の意味を正確に掴もうとあせっていた。「オオル・ライト」? 「オオル・ライト」・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・座敷の方の話し声がよく聞こえてきた。省作は頭の後ろを桶の縁へつけ目をつぶって温まりながら、座敷の話に耳をそばだてる。やっぱりそのごやごやした話し声の中からおとよさんの声を聞き出そうとするような心も、頭のどこかに働いている。声はたしかに五郎兵・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・奥の間でお通夜してくれる人たちの話し声が細々と漏れる。「いつまで見ていても同じだから、もう上がろうよ」 といって先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下にある物を認めた。自分はすぐそれと気づいて見ると、果たして亡き人の着ていた着物であっ・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・なんの鳥か、人の話し声と足音に驚いて、こちらの岸から、飛びたって、かなたの岸のしげみに隠れた。彼は、先生と別れてから、独り峠の上に立ちました。まだそこだけは明るく、あわただしく松林の頭を越えて、海の方へ雲の駆けてゆくのがながめられたのでした・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・そして、その後から、にぎやかな子供たちの話し声などがしてくるので、泣くのを忘れて見とれていると、葉の落ちて、裸となった林の間から、その列がちらちらと見えたのです。長吉は、いそいで、その後を追いかけました。 二、三度も彼はころんだけれど、・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・先に立った女中が襖をひらいた途端、隣室の話し声がぴたりとやんだ。 女中と入れかわって、番頭が宿帳をもって来た。書き終ってふと前の頁を見ると、小谷治 二十九歳。妻糸子 三十四歳――という字がぼんやり眼にはいった。数字だけがはっきり頭に来た・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫