・・・ 私はさし当り、これ以上実例を列挙して、貴重なる閣下の時間を浪費おさせ申そうとは致しますまい。ただ、閣下は、これらが皆疑う可らざる事実だと云う事を、御承知下さればよろしゅうございます。さもないと、あるいは私の申上げようとする事が、全然と・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ 黄金無垢の金具、高蒔絵の、貴重な仏壇の修復をするのに、家に預ってあったのが火になった。その償いの一端にさえ、あらゆる身上を煙にして、なお足りないくらいで、焼あとには灰らしい灰も残らなかった。 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のよう・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思われたので。……「ええ。」 ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・この貴重な秘庫を民間奇特者に解放した一事だけでも鴎外のような学術的芸術的理解の深い官界の権勢者を失ったのは芸苑の恨事であった。 鴎外は早くから筆蹟が見事だった。晩年には益々老熟して蒼勁精厳を極めた。それにもかかわらず容易に揮毫の求め・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・窓の障子の上には、夕暮方の光線がぼんやりと染んで、頭には幾分か白髪も交って頬に寄った小皺が目立って見える……室の中には、傷いた道具が僅かばかり並べられてあるばかりで、目を惹くような貴重のものも見当らない。女は、この広い世界にたゞ独り見捨てら・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・整列や敬礼の訓練をしたり、愚にもつかぬ講演を聞いたりするために、あと数日数時間しかもたぬかも知れない貴重な余命を費したくないですからね、整列や敬礼が上手になっても、原子爆弾は防げないし、それに講演を聴くと、一種の講演呆けを惹き起しますからね・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・また実際一円の香奠を友人に出して貰わねばならぬ様な身分の彼としては、一斤というお茶は貴重なものに違いなかった。で三百の帰った後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思いで、包装を剥ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋を開けたのだ。……新しいブリキ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・ すべての精神的に貴重なものが、そうであるように、恋愛もまた社会状態、経済的機構のいびつのために、みじめに押しまげられている。恋愛についてこうした理想的な要請をする場合に、私たちはそのことを考えると力抜けがするのを感じる。これはどうして・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ムの決議は日本のプロレタリア文学運動が、シッカリと大衆の中に根を張り、国際的な連関において前進して行くために、もっとも重要な、さしあたって第一番に議題として我々が討議し、具体化しなければならない幾多の貴重な提案をなしている。 プロレタリ・・・ 黒島伝治 「農民文学の問題」
出典:青空文庫