・・・そこを覗いているのだが、枝ごし葉ごしの月が、ぼうとなどった白紙で、木戸の肩に、「貸本」と、かなで染めた、それがほのかに読まれる――紙が樹の隈を分けた月の影なら、字もただ花と莟を持った、桃の一枝であろうも知れないのである。 そこへ……小路・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・いわゆる大衆物はやはり相応に流行して読まれたが、生活が約しかったのと多少の閑があったのとで、買うよりは貸本屋から借りては面白いものは丸写しか抜写しをしたものだ。殊に老人のある家では写本が隠居仕事の一つであったので、今はモウ大抵潰されてしまっ・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・であるから貸本屋の常得意の隠居さんや髪結床の職人や世間普通の小説読者よりは広く読んでいたし、幾分かは眼も肥えていた。であるから坪内君の『書生気質』を読んでも一向驚かず、平たくいうと、文学士なんてものは小説を書かせたら駄目なものだと思っていた・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・ また此外に矢張りこれも同級の男で野崎というのがありましたが、此野崎の家は明神前で袋物などをも商う傍、貸本屋を渡世にして居ました。ところが此処は朝夕学校への通り道でしたから毎日のように遊びに寄って、種々の読本の類を引ずり出しては、其絵を・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・のある俊雄はうるさいと家を駈け出し当分冬吉のもとへ御免候え会社へも欠勤がちなり 絵にかける女を見ていたずらに心を動かすがごとしという遍昭が歌の生れ変り肱を落書きの墨の痕淋漓たる十露盤に突いて湯銭を貸本にかすり春水翁を地下に瞑せしむるのて・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・病室にごろごろしている間は、貸本屋の持って来る小説を乱読するより外に為すことはない。 博文館の『文芸倶楽部』はその年の正月『太陽』と同時に第一号を出したので、わたくしは確にこれをも読んだはずであるが、しかし今日記憶に残っているものは一つ・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・其処には舟底枕がひっくり返っている。其処には貸本の小説や稽古本が投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段を上って来るので、皆が落ちていた誰かの赤いしごきを振って戯らす。 自分は唯黙って皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 裁縫師の女房から本が借りられなくなると、ゴーリキイは若いのらくら男女の寄り合い場となっている街のパン屋で、副業に春画を売ったり猥褻な詩を書いてやったり、貸本をしたりしている店から、一冊一哥の損料で豆本を借り出した。そこの本はどの本も下・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・ わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読した。貸本屋が笈の如くに積み畳ねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本、書本、人情本の三種を主としていた。読本は京伝、馬琴の諸作、人情本は春水、金水の諸作の類で、書本は今謂う講釈種である。そ・・・ 森鴎外 「細木香以」
出典:青空文庫