・・・ 藤井は額越しに相手を見ると、にやりと酔った人の微笑を洩らした。「そうかも知れない。」 飯沼は冷然と受け流してから、もう一度和田をふり返った。「誰だい、その友だちというのは?」「若槻という実業家だが、――この中でも誰か知・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・私たち三人は土用波があぶないということも何も忘れてしまって波越しの遊びを続けさまにやっていました。「あら大きな波が来てよ」 と沖の方を見ていた妹が少し怖そうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹の言葉通り・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
B おい、おれは今度また引越しをしたぜ。A そうか。君は来るたんび引越しの披露をして行くね。B それは僕には引越し位の外に何もわざわざ披露するような事件が無いからだ。A 葉書でも済むよ。B しかし今度のは葉書では済まん。・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・「御寝なります、へい、唯今女中を寄越しまして、お枕頭もまた、」「いいえ、煙草は飲まない、お火なんか沢山。」「でも、その、」「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」「それは・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水のある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨や薄で足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」「政夫さん、後生だから連・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・隣りの料理屋の地面から、丈の高いいちじくが繁り立って、僕の二階の家根を上までも越している。いちじくの青い広葉はもろそうなものだが、これを見ていると、何となくしんみりと、気持ちのいいものだから、僕は芭蕉葉や青桐の葉と同様に好きなやつだ。しかも・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・さすがに剛情我慢の井上雷侯も国論には敵しがたくて、終に欧化政策の張本人としての責を引いて挂冠したが、潮の如くに押寄せると民論は益々政府に肉迫し、易水剣を按ずる壮士は慷慨激越して物情洶々、帝都は今にも革命の巷とならんとする如き混乱に陥った。・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・その道筋は軌道を越して野原の方へ這入り込む。この道は暗緑色の草がほとんど土を隠す程茂っていて、その上に荷車の通った轍の跡が二本走っている。 薄ら寒い夏の朝である。空は灰色に見えている。道で見た二三本の立木は、大きく、不細工に、この陰気な・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「山を越してごらんなさい。三尺も、四尺もありますさかい。おまえさんは、どこから乗っていらしたの。」 黒い頭巾をかぶったおばあさんが、みかんをむいて食べながらいいました。年子は、話しかけられて、はじめて注意しておばあさんを見ました。な・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・元は佃島の者で、ここへ引っ越して来てからまだ二年ばかりにもならぬのであるが、近ごろメッキリ得意も附いて、近辺の大店向きやお屋敷方へも手広く出入りをするので、町内の同業者からはとんだ商売敵にされて、何のあいつが吉新なものか、煮ても焼いても食え・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫