・・・そうして蹌踉たる老紳士の後から、二列に並んでいるテエブルの間を、大股に戸口の方へ歩いて行った。後にはただ、白葡萄酒のコップとウイスキイのコップとが、白いテエブル・クロオスの上へ、うすい半透明な影を落して、列車を襲いかかる雨の音の中に、寂しく・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・そこへ黄泉の使、蹌踉と空へ現れる。 神将 誰だ、貴様は? 使 わたしは黄泉の使です。どうかそこを通して下さい。 神将 通すことはならぬ。 使 わたしは小町をつれに来たのです。 神将 小町を渡すことはなおさらならぬ。 ・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・と慷慨した、下級官吏らしい人々が、まだ漂っている黄昏の光の中に、蹌踉たる歩みを運んで行く。期せずして、同じく憂鬱な心もちを、払いのけようとしても払いのけられなかったからであろう。自分たちは外套の肩をすり合せるようにして、心もち足を早めながら・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・これに荒胆を挫がれた新蔵は、もう五分とその場に居たたまれず、捨台辞を残すのもそこそこで、泣いているお敏さえ忘れたように、蹌踉とお島婆さんの家を飛び出しました。 さて日本橋の家へ帰って、明くる日起きぬけに新聞を見ると、果して昨夜竪川に身投・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房を擲って居た。そうしてたった一週間前に買って遣った頭に被る新しい巾を引き裂いた。 それからこの犬は人間というものを信用しなくなって、人が呼んで摩ろうとすると、尾を股の間へ挿んで逃げた。時々は・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・橋杭ももう痩せて――潮入りの小川の、なだらかにのんびりと薄墨色して、瀬は愚か、流れるほどは揺れもしないのに、水に映る影は弱って、倒に宿る蘆の葉とともに蹌踉する。 が、いかに朽ちたればといって、立樹の洞でないものを、橋杭に鳥は棲むまい。馬・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 出足へ唐突に突屈まれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉いた。「何だねえ、また、吃驚するわね。」「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」「ああ、可いよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いた・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・小児三 ああ、大なものを背負って、蹌踉々々来るねえ。小児四 影法師まで、ぶらぶらしているよ。小児五 重いんだろうか。小児一 何だ、引越かなあ。小児二 構うもんか、何だって。小児三 御覧よ、脊よりか高い、障子見たような・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ びしゃびしゃ……水だらけの湿っぽい井戸端を、草履か、跣足か、沈んで踏んで、陰気に手水鉢の柱に縋って、そこで息を吐く、肩を一つ揺ったが、敷石の上へ、蹌踉々々。 口を開いて、唇赤く、パッと蝋の火を吸った形の、正面の鰐口の下へ、髯のもじ・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・ 火事の最中、雑所先生、袴の股立を、高く取ったは効々しいが、羽織も着ず……布子の片袖引断れたなりで、足袋跣足で、据眼の面藍のごとく、火と烟の走る大道を、蹌踉と歩行いていた。 屋根から屋根へ、――樹の梢から、二階三階が黒烟りに漾う上へ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
出典:青空文庫