・・・俺は昨夜もう少しで常子の横腹を蹴るところだった。……「十一月×日 俺は今日洗濯物を俺自身洗濯屋へ持って行った。もっとも出入りの洗濯屋ではない。東安市場の側の洗濯屋である。これだけは今後も実行しなければならぬ。猿股やズボン下や靴下にはいつ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・「打つ。蹴る。砂金の袋をなげつける。――梁に巣を食った鼠も、落ちそうな騒ぎでございます。それに、こうなると、死物狂いだけに、婆さんの力も、莫迦には出来ませぬ。が、そこは年のちがいでございましょう。間もなく、娘が、綾と絹とを小脇にかかえて・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・痙攣的に後脚で蹴るようなまねをして、潤みを持った眼は可憐にも何かを見詰めていた。「やれ怖い事するでねえ、傷ましいまあ」 すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。「・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・敷居に置けば、蹴る、脇へずらせば踏もうとする。「ちょッ。」 一樹の囁く処によれば、こうした能狂言の客の不作法さは、場所にはよろうが、芝居にも、映画場にも、場末の寄席にも比較しようがないほどで。男も女も、立てば、座ったものを下人と心得・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・いきなり足を蹴るものがある。見えないが、ひき蛙らしい。蛇もいそうだ。佐伯は張子のように首をだらんと突きだしたじじむさい恰好で視線を泳がせる。もし眼玉というものが手でひっぱり出せるものなら、バセドウ氏病の女のそれのように、いやもっと瞳孔から飛・・・ 織田作之助 「道」
・・・ 安子はいきなり戸を蹴ると、その足でお仙の家を訪れた。「どうしたの安ちゃん、こんなに晩く……」「明日田舎へゆくからお別れに来たのよ」 そして安子はとりとめない友達の噂話をはじめながら、今夜はこの家で泊めて貰おうと思ったが、ふ・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした。「来ているぞ。また、来ているぞ」 ワーシカは、二重硝子の窓に眼をよりつけるようにして、外をうかがった。「偉大なる転換の一年」を読んでいたシーシコ・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 滑桁のきしみと、凍った雪を蹴る蹄の音がそこにひびくばかりであった。それも、曠野の沈黙に吸われるようにすぐどこかへ消えてしまった。 ペーターの息子、イワン・ペトロウイチが手綱を取っている橇に、大隊長と副官とが乗っていた。鞭が風を切っ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・にちと脚が草臥ているからか、腰を掛けるには少し高過ぎる椽の上へ無理に腰を載せて、それがために地に届かない両脚をぶらぶらと動かしながら、ちょうどその下の日当りに寐ている大な白犬の頭を、ちょっと踏んで軽く蹴るように触って見たりしている。日の光は・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・脱ぎ捨てる時も、ズボンのポケットに両手をつっこんだままで、軽く虚空を蹴ると、すぽりと抜ける。水溜りでも泥路でも、平気で濶歩できる。重宝なものである。なぜそれをはいて歩いては、いけないのか。けれどもその親切な友人は、どうにも、それは異様だから・・・ 太宰治 「服装に就いて」
出典:青空文庫