・・・しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺を窺っている。彼は放埓を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。山科や円山の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ただ、黄昏と共に身辺を去来して、そが珊瑚の念珠と、象牙に似たる手頸とを、えもならず美しき幻の如く眺めしのみ。もしわれにして、汝ら沙門の恐るる如き、兇険無道の悪魔ならんか、夫人は必ず汝の前に懺悔の涙をそそがんより、速に不義の快楽に耽って、堕獄・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・仕事の寮番という処を、時流に乗って、丸の内辺の某倶楽部を預って暮したが、震災のために、立寄ったその樹の蔭を失って、のちに古女房と二人、京橋三十間堀裏のバラック建のアパアトの小使、兼番人で佗しく住んだ。身辺の寒さ寂しさよ。……霜月末の風の夜や・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ そのときの二人が状、あたかも二人の身辺には、天なく、地なく、社会なく、全く人なきがごとくなりし。下 数うれば、はや九年前なり。高峰がそのころはまだ医科大学に学生なりしみぎりなりき。一日予は渠とともに、小石川なる植物園に・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・と亡母を念じて、己が身辺に絡纏りつつある淫魔を却けられむことを哀願しき。お通の心は世に亡き母の今もその身とともに在して、幼少のみぎりにおけるが如くその心願を母に請えば、必ず肯かるべしと信ずるなり。 さりながらいかにせむ、お通は遂に乞食僧・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・この地へ着くまでに身辺のものはすっかり売りつくして、今はもう袷とシャツと兵児帯と、真の着のみ着のまま。そして懐に残っているのは五厘銅貨ただ一つだ。明朝になって旅籠代がないと聞いた時の、あの無愛相な上さんの顔が思いやられる。 そのうちに、・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ まるで日本の伝統的小説である身辺小説のように、簡素、単純で、伝統が作った紋切型の中でただ少数の細かいニュアンスを味っているだけにすぎず、詩的であるかも知れないが、散文的な豊富さはなく、大きなロマンや、近代的な虚構の新しさに発展して行く・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・という上林暁の攻撃を受け、それは無理からぬことであったが、しかし、上林暁の書いている身辺小説がただ定跡を守るばかりで、手のない時に端の歩を突くなげきもなく、まして、近代小説の端の歩を突く新しさもなかったことは、私にとっては不満であった。一刀・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・月の光を浴びて身辺処々燦たる照返を見するのは釦紐か武具の光るのであろう。はてな、此奴死骸かな。それとも負傷者かな? 何方でも関わん。おれは臥る…… いやいや如何考えてみても其様な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・底知れない谷へでも投りこまれたような、身辺いっさいのものの崩落、自分の存在の終りが来たような感じがした。「どうかなすったんですか?」と、お婆さんは私の尋常でない様子を見て、心配そうに言った。「おやじが死んだんだそうです……おやじが死・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫