・・・二人づれの国学院の学生がその時入って来て、座席を物色した。車内は九分通り満員だ。二人はその農夫の前えに並んでかけた。 農夫はやがて列車が動き出すと、学生に話しかけた。「学校は東京ですかい?」「ええ」「あなた方の学校にも、支那・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
・・・そこは、市電の終点で、空の引かえしが明るく車内に電燈を点して一二台留っていた。立ち話をしている黒外套の従業員の前や後を、郊外電車から吐き出された人々が通る。ひょっと、その群集の中に、はる子は千鶴子らしい若い女を認めた。こちらからはる子が進ん・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・ 一人の日本女がレーニングラード行の夜汽車に寝ていること、零時五分に車掌が天井の電燈を二つ消して車内を一層眠りよく薄暗くして去ったことと、それとの間に何のつながりがあるだろう? 日本女は感じている。彼女の体に響いているレールの継ぎ目一つ・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・大船では発車、三分前、プラットフォームに出て歩いて居たが、もう入ろうとして車内に入ったばかりのところに、ゆるい地震が来ひきつづき、立って居られないほど、左右に大ゆれにゆれて来た。彼は、席の両はじにつかまり、がんばり、やっと、一次のはすぎる。・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・ ずんぐりが指図している。車内にのこった一人が方向を巻き直そうとしてのび上ったら、「方向はいいから、方向板だけはずして下さい」 その電車は、ポールを直した車掌をのこしたまま動き出しかけた。背広車掌があわてて一二歩走りながら、・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・ そう云いながら、ひろ子は自分の体ごと重吉を車内におしこんだ。重吉は、ほかの乗客の足をふむまいとして無理な姿勢で立って、発車するとき、ひどくよろけた。こむ乗物の中で、粗暴な群集にも乗ものそのものにもまだ馴れない重吉が、大きな体をおとなし・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・この人で詰った車内で、自分だけどうすると云うことは勿論出来ないことだ。そんな事はあるまいと、可怖いながら疑いを挾んでいた私は、この叫びで、一どきに面していた危険の大きさを感じ、思わずぞっとしたのであった。ぼんやり地平線に卵色の光りはじめた黎・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
・・・西日の射す退けどきの渋谷のプラットは、車内から流れ出る客と乗り込む客とで渦巻いていた。その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛えた清らかな眼差は、細く耀きを帯びて空・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫