・・・際兇器にて傷けられたるものにあらず、全く日清戦争中戦場にて負いたる創口が、再、破れたるものにして、実見者の談によれば、格闘中同人が卓子と共に顛倒するや否や、首は俄然喉の皮一枚を残して、鮮血と共に床上に転び落ちたりと云う。但、当局はその真相を・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 九歳十歳ばかりのその小児は、雪下駄、竹草履、それは雪の凍てた時、こんな晩には、柄にもない高足駄さえ穿いていたのに、転びもしないで、しかも遊びに更けた正月の夜の十二時過ぎなど、近所の友だちにも別れると、ただ一人で、白い社の広い境内も抜け・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 私は幾度となく雪に転び、風に倒れながら思ったのであります。「天狗の為す業だ、――魔の業だ。」 何しろ可恐い大な手が、白い指紋の大渦を巻いているのだと思いました。 いのちとりの吹雪の中に―― 最後に倒れたのは一つの雪の丘・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ とおっしゃって立ち上り、椅子に躓いて転びましたが、あの時は、私も但馬さんも、ちっとも笑いませんでした。それからの事は、あなたも、よく御承知の筈でございます。私の家では、あなたの評判は、日が経つにつれて、いよいよ悪くなる一方でした。あなたが・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・やっとの事立上ったかと思うと、またよろよろと転びそうになる。足袋はだしの両脚とも凍りきって、しびれてしまったらしい。 途法にくれてあたりを見る時、吹雪の中にぼんやり蕎麦屋の灯が見えた嬉しさ。湯気の立つ饂飩の一杯に、娘は直様元気づき、再び・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽を転び出でたり。 ひく浪の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛む勢の、前よりは凄じきを、浪自らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫